イスラエルとパレスチナの“2国家共存”を目指したオスロ合意から30年。交渉にあたった当時のパレスチナのアラファト議長とイスラエルのラビン首相、ペレス外相は、合意の翌年にノーベル平和賞を受賞しました。しかし、恒久的な和平は今に至っても実現していません。そのオスロ合意に関わり、その後も和平の実現に尽力したイスラエルの元閣僚にインタビュー。外交の失敗が招いた悲劇について聞きました。

イスラエルの元閣僚にインタビュー 外交の失敗が招いた悲劇

1993年9月13日に結ばれた「オスロ合意」。イスラエルがヨルダン川西岸とガザ地区から撤退し、パレスチナが暫定的な自治を行った上で独立するという2国家共存を目指したものでしたが…

ヨッシ・ベイリン氏
「オスロ合意の暫定期間は1999年5月4日まででした。その後、エルサレムやパレスチナ難民の将来や国境などに関わるすべての未解決の問題を巡る恒久的な協定に移行するはずでした。しかし、1999年には何も起きませんでした。なぜならイスラエルとパレスチナ両陣営の過激派が、我々の合意を覆すためにあらゆる手を尽くしたからです」

イスラエルとパレスチナの両陣営の過激派に合意は潰されたと話すのは、イスラエルの元法相で、オスロ合意には外務副大臣として関わったヨッシ・ベイリン氏。オスロ合意は、恒久的な和平の実現へ向けておよそ5年間の交渉期間を設けていましたが、その間に起きたのは過激派によるテロの応酬。更に、オスロ合意から2年後には、ラビン首相が平和集会でスピーチを終えたあと、和平交渉に反対するイスラエル人の学生に暗殺されました。

ヨッシ・ベイリン氏
「オスロ合意へのこれほどまでの反対は、当時の私の理解をはるかに超えるものでした。イスラエル人を標的にした、パレスチナ人による自爆テロや、ラビン首相の暗殺といった一連の暴力によって、暫定合意を恒久的な和平に繋げることは、極めて困難になりました」

ラビン首相暗殺の翌年には、イスラム組織ハマスによる連続爆弾テロが発生。その後の国政選挙では、「治安の回復」をスローガンにした強硬右派のネタニヤフ氏が政権を奪取しました。

ヨッシ・ベイリン氏
「ネタニヤフは、自分が首相になれば、オスロ合意から離脱すると約束しました。彼は首相に就任後、公式には離脱しなかったが、独自の方法で履行すると述べました。つまりそれは、永遠に長引かせるということを意味しています。イスラエルの右派は、自分たちのイデオロギーのためにオスロ合意を利用しました。オスロ合意を交わしましたが、そこには“これ以上入植地を増やさない”という一文はありません。だからオスロ合意の下でイスラエルは入植地での建設を続けたのです」