大量の艦砲射撃が始まった1945年3月この時期に住民はやんばるへと避難する、北部疎開が本格化しました。

国頭村奥間に疎開していた比嘉秀子さん。4月上旬、アメリカ軍から逃れるため、山中を逃げ惑う日々でした。

国頭村に疎開していた比嘉秀子さん(93)
「夜は何も見えないさ、あっちは鏡地は砂地ですよね、かずらをつかまえたら、あぁこれはかずらだね、根っこにはお芋があるね、砂をこんなして集めて」

飢えをしのぐため、畑から盗みを働くこともあった避難民たち。それでも、やんばるの戦では食糧難による栄養失調やマラリアで多くの人が命を落としました。

国頭村に疎開していた比嘉秀子さん(93)
「これお父さん、マラリアで亡くなりました。(父の死が)悲しいということはありませんでした。みんなマラリアだから」

家族全員がマラリアに罹り、悲しむ余裕すらありませんでした。

国頭村に疎開していた比嘉秀子さん(93)
「戦争というのは、勝っても命無くなるし、負けても命亡くす人がいる、だから絶対にいまから戦争をしてはいけないよ」

住民と軍隊が混在した沖縄戦。アメリカ兵に捕まれば“八つ裂きにされる”などと旧日本軍に吹きこまれ、「集団自決」が起きました。

糸満市在住 大屋初子さん(86)
「去年までは(魂魄の塔に)行ったわけ。去年までは“看板ばあちゃんしてるよ”と笑ってたけどさ。自分で」

糸満市米須に住む、大屋初子さん86歳。魂魄の塔の前で40年以上、戦没者に手向ける花を売ってきました。

大屋初子さん(86)
「亡くなっている人がいっぱいいるさね。この生臭い血。(戦争が)終わってからも頭から離れなかった。臭くて」

初子さんが身を隠していたカミントウ壕の跡。77年前の6月20日ごろ、何人ものアメリカ軍に囲まれていました。

大屋初子さん(86)
「アメリカは何回もね、食べ物着物一杯ある、出て来いと何十回も何百回も声をかけてるけど。兵隊さんが出さないわけよ」

やがて壕の中にいた住民たちは自ら手榴弾を爆発させ次々、自決していったといいます。

大屋初子さん(86)
「家族ぐるみでバンバンやって。うちのお婆さんも自分たちも早く自決を早くやりなさいと。お父さんにせがんでいる訳よ。そしたら私は“絶対死なない”と泣いたから。せめて太陽の光を見てから死のう」

父親の言葉と共に外に出た初子さん家族はアメリカ軍の捕虜となり助かりました。

大屋初子さん(86)
「亡くなった人には本当に悪いと思うんですよ。とっても胸が痛くなるんですよね」

高齢のため、ことしは家族が代わりに花を売っています。身元の分からない犠牲者たちが眠る魂魄の塔で花を売るワケは―。

「ただポツンと慰霊塔だけだったらね、魂も迷うはずだけど。自分たちがこっちで花を売って備える。この備えるだけで、とってもね、亡くなった方も癒されるわけよね」