表舞台から遠ざかっていった鈴木選手
その一報に目を疑った。
マラソン世界陸上 鈴木健吾と一山真緒が欠場
'22年7月、世界陸上でオレゴン入りしていた鈴木選手は、レース3日前の記者会見で「やっと世界に挑戦できる時が来た。強い世界の選手に積極的にチャレンジしていきたい」と意気込みを語っていた。ところがレース前日、夫婦揃って新型コロナ陽性が判明。欠場を余儀なくされた。
当時を鈴木選手が振り返る。
「やっと代表権を掴み取って、準備としても悪くない状態で現地入りしていたので、やるせないというか、なんとも言えない気持ちになりました」
そんな鈴木選手の胸の内を気遣うチームスタッフは、直近のマラソン大会出場を提案。鈴木選手も気持ちを切り替えていたという。
「3、4か月かけて準備してきたものを発揮できなかったので、スタッフも『準備してきたものもあるから、直近のマラソン出てみたら』ということで、10月のロンドンマラソンの出場を予定していました。でも、なかなか準備もできてなくて、足の状態もあまりよくなかったので棄権となって…。この時はやはり精神的にダメージを感じました」
それでも、翌23年3月の東京マラソンで世界陸上の切符をもう一度掴み「夏のブダペスト経由、パリ行き」というストーリーは、鈴木選手にとって絶対に譲れない自らのミッションとして視界の中央に捉えられていた。
ところが東京マラソン2か月前の1月、右足股関節の痛みを原因に、鈴木選手はレース欠場を発表。日本最速ランナーは、次第に表舞台から遠ざかって行った。
「レースに出られず得られなかったものは、レースでしか取り返せないと思っていたので、目標の1つとして東京マラソンを狙っていたんですが、なかなかうまくいかないな、という状態でしたね。やはりマラソンの練習って、準備が長い分、自分の思い描いた通りにはなかなか毎度毎度いかないなというのはすごく感じています」
マラソンランナーがレースに出られないという地獄。それでも鈴木選手の折れそうな心を支え続けていたのは、走る苦しみも喜びも分かち合う妻の存在だったという。
「当時は2人で世界陸上を目標にしていたので、2人とも走れなくて2人とも落ち込んだところもありましたが、その先のパリに向かって一緒に頑張ろうという気持ちになっていきました」
そんな頃、鈴木夫妻に思わぬお誘いが舞い込んだ。それは、市民マラソンのゲストランナー。開催地は、故郷の愛媛県だった。