「終始一貫、自民党の良心であり続けた」

“テレビに出て話すのはこれが最後かもしれない”と周辺から聞こえる中、86歳になった河野洋平氏がスタジオに来てくれた。今やデジタル大臣の河野太郎氏の父と言った方がピンとくる世代もいるだろう。

自民党創世記の重鎮、河野一郎氏を父に持ち、自民党総裁、衆議員議長を2期務め云々…。いわゆる“河野談話”で慰安婦問題に旧日本軍の関与を認めるなど、実績を語れば枚挙にいとまがない。河野洋平氏とはどんな政治家だったのか…。

永田町を40年以上取材してきたジャーナリスト・後藤謙次氏は河野氏を“悲劇の政治家”“自民党の救世主”と評した。

ジャーナリスト 後藤謙次氏:
「河野さんは終始一貫、自民党の良心であり続けた。1976年、ロッキード事件を批判して新自由クラブを立ち上げた時も、反旗を翻しているようで実は自民党を救った。ロッキード事件の後、選挙があって自民党は大きく議席を失った。が、その分新自由クラブが取ったので(票が共産党などの左派に流れず)自民党は与党であり続けた。

83年の選挙で中曽根政権が過半数割れした時にも新自由クラブがあったから、連立してあの中曽根長期政権が実現した。河野さんの昭和12年生まれは小渕恵三さん橋本龍太郎さん森喜朗さん、3人総理になってる。その中で河野さんは自民党総裁になりながら総理になれなかったという意味で悲劇の政治家であり良心の政治家だ」

その河野洋平氏が野党自民党の総裁時代、1994年に細川護熙総理と合意に至った政治改革によって、現在の小選挙区制がスタートした。30年が経とうとする今、2人に当時の決断を振り返ってもらった。すると、どちらの話もそれぞれに意外なものだった…。