ブダペストの夜空に北口榛花(25、JAL)が大逆転のアーチを架けた。世界陸上ブダペスト大会は7日目で、日本勢にとって素晴らしい快挙が実現した。女子やり投の北口は5投目まで63m00の4位だったが、最終6投目で66m73を投げて逆転金メダル。五輪&世界陸上を通じ、マラソンを除く女子種目初の金メダルを獲得した。
金メダル決定から数時間。旭川東高時代の陸上競技部顧問だった松橋昌巳さん、日大時代の北口に関わった小山裕三さん(TBS解説者)。2人の恩師にそれぞれ、興奮冷めやらぬ状況でお話をうかがった。

「世界一になる人間なんでしょうね」(松橋さん)

――北口選手が世界一になりました。
松橋:

もうすごすぎて、何も言うことがない、言葉にできないくらいの……そんな感じです。世界一の記録(今季世界最高の67m04)を持って出場したのだから、勝って当然という見方もできますが、それをやり遂げるんですから、まだちょっと信じられません。

――教え子が世界一
松橋:

もう、ありがとうございます、としか言いようがないですね。世界一になる人間に関われたことに感謝する以外、何もありません。

――松橋さんがご覧になった北口選手の試合で一番感動されたのは?
松橋:

日本高校記録を出した時が、今回と同じように6投目でした。高校最後の試合で、最後の最後の土壇場、後がない状態で投げてくれました。私が直接見ている範囲では高校記録ですね。

――去年、世界陸上オレゴンで銅メダルを取ったときも感動されたと思うのですが?
松橋:

本人も言っていますが去年は入賞を目標にして、挑戦者的な立場でそこまでの緊張感もなく、リラックスして行けたと思います。今年はもう、まったく状況が違いますよね。それが(記録が伸びなかった)5投目までの投げだったと思うんです。それを6投目で吹っ切ることができた。そこはやはり、世界一になる人間なんでしょうね。

「想像の域をはるかに超えた素晴らしいドラマ」(松橋さん)

――6投目は何か予感がありましたか。
松橋:

そこまではなかったです。行って欲しいと念じるしかないので。ただ、7月の日本記録(67m04)も6投目ですよね。そうした勝負強さは色んなところに出ていました。試技の流れとして本人もテレビで話していましたが、6投目で逆転されてメダル圏内から落ちましたよね(4位)。いわゆるアドレナリンが出る状況で、北口は燃えることができた。逆転されたことで、再逆転しやすくなる。メダル圏内には返り咲くだろうと。でも1位まで行くのは私のイメージ以上でした。高校時代も全てにおいて私の想像を超える選手でしたが、それは世界で戦う今もそうなんだと実感しました。

――北口選手が世界一になって、改めて思い浮かんだ高校時代のシーンが何かありますか。
松橋:

インターハイで勝ったときに、大会記録を出せなかったと泣いていた姿が思い浮かびます。悔しさの次元と言うんでしょうか。負けて悔しがるのはよくある話ですが、勝っても悔しいという。

――しかし、ここまでのシーンを想像されていたのでしょうか。
松橋:

いやいや。想像できないですよ。試合中もそうです。2位になったコロンビアの選手が1回目に65mを投げましたよね。無名というか、あまり実績のない選手が。63~64mくらいだったらそれほどでもなかったのでしょうが、65mは簡単に投げられる記録じゃないですから。たぶん、それもプレッシャーになって5投目までは思うような感じで投げられなかったと思うんです。勝つとしたらもう少し前半から、ポンポンと投げて勝つのかな、と思っていました。この絵に描いたような、誰かが脚本を書いているような大逆転は、誰も想像できません。想像の域をはるかに超えた素晴らしいドラマでした。

――今後の北口選手に望むことは、松橋さんの車のナンバープレート(7228=世界記録)ですか?
松橋:

その前に70mという数字がありますから、まずは70mの大台に乗せることですね。その先に世界記録が見えてくるんだろうと思います。

「今までの日本人では考えられないような行動をとってきての世界一」(小山さん)

――北口選手の金メダルを生で見られた感想は?
小山:

素晴らしいですね。世界一になりたいという夢を持って、単身チェコに渡って、何年もやってきたわけですよね。今までの日本人では考えられないような行動をとってきての世界一。自分の夢を叶えました。本当に何も言うことはないですね。おめでとう、という言葉以外ありません。

――最終6投目での逆転については?
小山:

性格的に見て6投目に投げ返してくるだろうと思いました。やってきていること、積み重ねができていましたから。試合前に、『投げたいところに投げられるか、そこに合わせるだけだ』と言っていました。徐々にそれをやれていたので、6投目は逆転できるだろうと信じていました。コロンビアの選手が1投目にかなり良い記録(65m47の南米新記録)を出して、試合展開的にも楽なものではなかった。プレッシャーがあったようで、今までにないフィニッシュ後の姿勢になったりしました。やりを低く投げてしまったり、非常に苦しんでいましたね。あんな投げは、最近は見たことないですね。

――優勝記録がセカンド記録の66m73。その記録を世界陸上という大舞台で投げました。
小山:

私はテレビ解説をしていましたが、最初から優勝は66mと言わせていただきました。シェケラックコーチもそのように言われていたようですが、今回のメンバーで66m台を投げられるのは北口しかいない。コロンビアの選手は(技術を修正しながら)試技の流れで記録を伸ばすというより、肩の強さで投げてくる選手と見ました。65mは上手く引っかかった投てきだったと思います。6投目に北口が再逆転される心配は、まったくしていませんでした。

「北口は最初から、世界で戦うことだけを考えて育てた」(小山さん)

――6投目の大逆転スロー。北口選手のメンタルの強さは、どのようにして培われたものでしょう?
小山:

やはり単身でチェコに渡ってでも、自分の夢を叶えたいという姿勢だと思います。どこにも逃げ場所がなく、全てをやり投に懸けてやってきたことが、そうした強いメンタルになったのだと思います。

――マラソン以外で女子選手が金メダルを取ったのは初めてですが、北口さんを日大に勧誘されたとき、世界で戦うことを戦略的に考えていたのですか。
小山:

北口の高校時代の様子や性格などをうかがって、日大だったら伸ばせると思いました。日大の強化は男子だけだったので、女子は思いきって自由にできる。例えば男子の中で練習していれば、外国人選手の中でやるような環境になります。自分よりずっと強い選手たちとやるわけですから。関東インカレも4年間、やり投は一度も出ていません。北口は最初から、世界で戦うことだけを考えて育てようと思いました。国内のレベルを意識させなかったのがよかったと思います。

――しかしコーチ選びはスムーズに行かなかった。
小山:

国内ではなかなか合うコーチが見つかりませんでした。3年生のときにシェケラックコーチと出会うことができ、日大としては本人がやりたいことを一生懸命お手伝いしてあげたい、と考えました。本人が良いと思えるコーチと出会えたのなら、そこで頑張るのがいい。

――世界一になった北口選手に次に望むことは?
小山:

やはり来年のパリ五輪の金メダルですね。70mとか世界記録というレベルはまだ、北口は見えていないと思います。まずは68mで、とにかくパリ五輪で優勝して欲しいです。それが次の目標であり、ステップだと思います。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)