選手のフライングを防ぐには?合図のコツは“音量”と“タイミング”

ーースターターとして、合図の出し方ではどういった工夫をしていたのでしょうか?

「『位置について』と『よーい』というたった2つの言葉でも、言い方によって選手の受け取り方がずいぶん変わります。

たとえば『これくらいのタイミングで号砲が鳴るだろう』とヤマをかける選手がいた場合、『用意!』と大声で言ったら、勢いに釣られて飛び出してしまうんです。

ですので、『位置について』は比較的大きな声でも構わないのですが、『よーい』はトーンを落とし、優しく言うのがいいですね。そのほうが選手は腰を上げてスーッと止まってくれ、スターターも号砲を鳴らしやすくなります。

号砲を鳴らすピストルも、警視庁が今でも使っている38口径のニューナンブを借り、一番いい音が出るよう工夫したものです。音は大きすぎても小さすぎてもダメなので、専門の火薬会社に注文し、試作を繰り返したという経緯があります」

ーーフライングは選手のミスだと思っていましたが、スターターの責任も多分に問われていると?

「そうです。未熟なスターターはフライングさせないか不安で冷静な判断ができず、選手の静止を待たないでピストルを早撃ちしてしまいがちなんですよ」

ーーなるほど、スターターが選手に釣られてレースを始めてしまうようでは好記録も出ませんよね…。音量のほかにも、合図のポイントはありましたか?

「『位置について』から『よーい』までは20秒前後、『よーい』から号砲までは1.8~2秒くらいが、選手がフライングしないための理想的なタイミングでした。

これは私が東京オリンピックに向け、1年前から国内の大小あらゆる大会に足を運び、ストップウォッチで600件以上ものデータを集めた結果です」

ーー不勉強ながら、スターターは合図を機械的に出しているだけだと勘違いしていました…。選手が落ち着いて走り出せるよう後押しするためには、合図の音量に加え、タイミングも見極めなければならないんですね。

「東京オリンピックの主任スターターだった佐々木吉蔵先生(故人)は『100メートル男子決勝を不正なくスタートさせたい』という執念に燃えていたんですよ。1960年のローマ大会も1956年のメルボルン大会も、決勝は一発では決まりませんでしたからね。

私は補助役員として佐々木先生につきっきりで、その思いは手に取るようにわかりましたし、一生懸命に協力しました」

東京オリンピックの100メートル男子決勝は、佐々木氏が見事に一発でスタートさせ、アメリカのボブ・ヘイズが10.0秒という当時の世界タイ記録かつオリンピック新記録で優勝した。

そして時は流れて令和。国際ルールにのっとった競技会では、場所にかかわらず「On your marks, Set」の共通の掛け声が使われている。

しかし、昔から変わることがないのは、その掛け声で選手たちを安心させ、気持ちよくスタートできる雰囲気を生み出す、スターターたちの献身だ。これから陸上競技を観戦する際はぜひ、彼らの一挙一動に注目してみてはいかがだろうか。