「モチベーション、そりゃあがりますよ。日の丸を着けると重みを感じるし、非常に楽しいですね」

今年からバレーボール女子日本代表の指揮を取る、眞鍋政義(58)。
5年ぶりの監督復帰を果たし、現在チーム作りの真っ只中だ。

「やはり(2024年の)パリ五輪まで時間がないんですよ。今からだと2年5〜6か月でパリの本大会を迎える。やっぱり現状は厳しい。でもひとつのことでパッと変わる気がする」

メダルを期待されながら 25年ぶりの予選ラウンド敗退となった東京五輪。
バレーボール女子日本代表の復権は、稀代の名将に託された。

会見ではスローガンを発表

5月6日、メディア向けの日本代表記者会見。眞鍋はある人物たちを会場に呼び寄せていた。
2012年のロンドン五輪で28年ぶりにメダルをつかんだ愛弟子たち。現役を退いた彼女たちを再び集め、フランス語で「取り巻き、環境」の意味を持つ「アントラージュ」と命名。選手たちをサポートする相談役に任命した。

眞鍋は集まった愛弟子たちに、こう語りかけた。

「女子バレーの人気を回復するためには皆さんの力が必要。いまの選手たちは、ロンドン・リオの選手よりも強いスパイクを打つ。このメンバーがロンドン五輪にいたら金メダルをとってるくらい。色んな話をしてやってください、よろしくお願いします」

「アントラージュ fromロンドン」と眞鍋監督

もう一度“強い日本女子”を取り戻す、名将の新たな挑戦・・・

「オールジャパン体制でいく。その一つが“アントラージュ”。時間の許す限り練習に参加してもらい色んなアドバイスをしてほしい。我々の目標はパリ五輪でメダルを獲得する、メダルに挑戦!」

「パリ五輪に出られなければ、女子バレーは誰も相手してくれなくなる」

兵庫・姫路市にて

2016年リオ五輪を最後に代表監督を退任した眞鍋。その後、生まれ故郷の兵庫・姫路市で日本初の女子プロチーム『ヴィクトリーナ姫路』を設立。監督から経営者に転身していた。

そんな中、去年の東京五輪で、メダルを期待されながら日本は25年ぶりの予選ラウンド敗退。訪れた女子バレー界の危機に、立ち上がったのが眞鍋だった。5年ぶりの再登板、もう一度日の丸を着けるとは思ってもいなかったというが、なぜ自ら代表監督に名乗りを挙げたのだろうか。

「初めは何十回も断った。でもある方に『パリ五輪に出れなかったら女子バレーはマイナースポーツになって誰も相手にしてくれないよ』と言われ、その言葉が心に響いた。周りは泥舟と言うし良いことばかりじゃないけど、一番苦しい時に私でよかったら・・・と最後に手を挙げた」

現役時代、188センチの大型セッターとして数々の輝かしい実績を残した眞鍋。1学年先輩で、現在日本バレーボール協会の会長を務める川合俊一らと共に、1988年のソウル五輪では日本の司令塔としてコートに立った。

しかし、五輪に出場したのはその一度きり。それより今も自身の記憶に残るのが、出られなかった苦い思い出だ。

「1996年アトランタ五輪の最終予選。五輪にいけなかったことが僕の人生を変えた。本当に悔しくて、そこから男子は3大会、12年間(五輪に)いけなかった。その責任、負けた悔しさがあったから指導者として日の丸をつけたいと思った」

五輪を逃し、男子バレー低迷期を招いた悔しさと責任は、指導者となった眞鍋の心を駆り立てた。史上二人目となるVリーグ男女優勝監督となるなど、実績が買われ、2008年に全日本女子の監督に就任した。

代名詞となった“データバレー”
眞鍋の取り組みは、大きな改革をもたらした。バレー界に、世界で初めて「i Pad」を導入。プレーの結果をアナリストが全てデータ化し、瞬時にそのデータは眞鍋の元へ。それを見て即座に指示を出す、代名詞となった「データバレー」だ。選手とスタッフが一丸となって独自の戦術を追求した結果、2010年の世界バレーで、32年ぶりとなる銅メダルを獲得。そしてロンドン五輪で28年ぶりのメダルをつかみ取った。