68年前の5月11日、修学旅行中だった南海中学校の生徒を乗せた船“紫雲丸(しうんまる)”が沈没し、28人が亡くなりました。遺族や同級生らは「同じような事故を二度と繰り返してほしくない」と追悼の意を捧げました。
1955年5月11日、濃霧の中、本州と四国を結ぶ連絡船「紫雲丸」が高松市の沖合で貨物船と衝突し沈没しました。乗客168人が犠牲となりその中には、修学旅行中だった高知市の南海中学校の生徒28人もいました。
11日、南海中学校では追悼式が行われ、遺族や同級生、また現在南海中学校に通う生徒らが出席し、若くして命を落とした無念の死を悼みました。
(南海中学校 生徒会長 3年 中川想介さん)
「犠牲になった生徒が言えなかった『ただいま』を当たり前に言えること、友達と楽しく過ごせる日々が続くことなどに感謝して、私たちはこの事故から学んだ教訓を全国に向けて発信し続けます」
当時、修学旅行は九州へ向かう班と、阪神へ向かう班に分かれていて、阪神へ向かう途中の生徒が紫雲丸で命を落としました。行先がちがい事故にあわなかった同級生は号外を見て事故を知り、涙が止まらなかったと言います。
(班が違い事故にあわなかった同級生 山本元子さん)
「何というか、真実と受け止めがたくて…みんな無口になって沈んで、泣きながら帰った。高松で同級生の遺体と一緒に、高知へ帰ってきました」
わずか4分で沈没した紫雲丸。その中で助かった同級生は事故当時のことを鮮明に覚えています。
(紫雲丸に乗船した同級生 吉野和子さん)
「わたしは船の一番後ろにいたので沈む寸前まで状況がわからなかった。現実か夢か分からない感じ。私は泳げないので船の手すりを押さえて船と一緒に沈みました。どれくらいか、仮死状態になっていたと思います。浮かび上がってきて、民間の船に助けてもらいました」
紫雲丸の事故を受け“泳げない子どもをなくそう”と全国の小中学校にプールが建設されました。
事故から68年。遺族も高齢化が進む中、唯一の遺族として追悼式に出席する武島さんは、二度と同じような事故を繰り返してほしくないと話します。
(姉を亡くした遺族 武島東亜子さん)
「忘れません、忘れたことはないですよ。慰霊祭も一回も休んだことはない。ずっと68年、来ています。(Q.いまの南海中の生徒に向けて)とにかく事故のないように修学旅行へ行ってほしい、それだけです」