こちらのおいしそうなラーメン。実はイノシシのスープやチャーシューで作られています。農作物を荒らすとして駆除されるイノシシやシカなどの肉を、食材として有効活用しようと奮闘する女性に密着しました。
鹿児島市の人気ラーメン店にはすでに30人ほどの行列が…。お目当ては、この日の限定の「ジビエラーメン」。県内で捕獲されたイノシシを使ったラーメンです。
イノシシの骨から作ったスープ、イノシシのチャーシューは、さまざまな部位を楽しんでもらおうとバラ、ロース、モモ肉を使った3種類です。
(食べた人)
「イノシシを使うラーメンを初めて食べた。臭みとかがなく、ちょっと野性味はありつつ、しっかりと美味しいラーメンで、スープも一滴も残さずいただいた」
「まったく臭みがなくて、出汁がとっても美味しかった」
ラーメンを食べる客の様子を気にする女性。峯夕子さん、46歳。今回の限定ラーメンの仕掛け人のひとりです。
(峯夕子さん)「食べている顔やスープを飲んで美味しいって聞くとすごくうれしかった。ラーメンで手軽に食べられる。ジビエへの意識が少しでも変わればいいなと」
ジビエとは、イノシシやシカなど野生動物の肉を意味するフランス語です。農作物に害を及ぼすとして駆除の対象になっている動物たちの肉は、ジビエ食材として注目されています。
県内の野生鳥獣による農作物の被害額は2021年度はおよそ3億3000万円。その65%はイノシシとシカによる被害です。
イノシシとシカは県全体でおよそ5万3000頭が捕獲されましたが、食用に加工されたのはシカが7.4%、イノシシが1.7%とごくわずかで、ほとんどが山に埋められて処理されています。
(峯夕子さん)「埋設することは、捨てることになる。それを処理・加工しておいしく食べられる。せめて人ができることなのかなと」
人の都合で命を奪うなら、捨てずに活かせないか。日置市の猟友会の友人から現状を聞いた峯さんは、去年6月「鹿児島ジビエ研究所レイビッグジャパン」を立ち上げました。
国の補助金などを活用し、日置市日吉町の旧扇尾小学校の給食室をおよそ5300万円かけて改装し、ジビエの解体・加工・販売を手がけています。
この日、地元の猟師から「罠にシカがかかった」との連絡を受け、日置市伊集院町の山へ向かいました。
到着すると苦しまないよう、手早く処理をします。鮮度を保つため氷を入れて冷やし、冷凍車で加工場に運びます。
(峯夕子さん)「何度立ち会ってもかわいそうだし、だからと言って生かすわけにもいかない。おいしく食べていただきたい。なるべくきれいにさばくように心掛けている」
この1年で狩猟免許も取得し、慣れた様子で作業を進める峯さんですが、初めて山に入ったときは周りを驚かせたと言います。
(峯夕子さん)「何も分からずに山に行ったので、グッチのスニーカーにヴィトンのバッグを持って山に行きました。猟師さんもさすがにヴィトンを分かったらしくて、そのバッグは山にダメだと」
実は薩摩川内市で飲食店を26年経営してきた峯さん。経営手腕をジビエの展開に生かしています。
(鹿児島ジビエ研究所レイビッグジャパン 川邊廣隆事業部長)「ジビエ肉はメジャーな肉ではないので、そう簡単にはいかないだろうと思ったけど、(峯さんは)若いころから自分で経営しているので、うまくちょっとずつだが進んでいっていると思う」
日置市の加工場では従業員3人、アルバイト7人を雇用。ミシュランを獲得している東京のレストランとも取引し、県内外の飲食店やネット販売などで販路を拡大。シカやイノシシのジャーキーなどペットフードも開発し、販売しています。
ジビエの可能性を信じて――。
新たな形と工夫の積み重ねで、新たな名物になるか注目です。
(峯夕子さん)「(ジビエを)一回は食べたことがある、おいしく食べれるものだと知ってもらって、少しでも消費量を上げていきたい。日置からジビエを発信して、ジビエの町と言われるぐらい頑張っていきたい」
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