なぜ事件は起こったのか…社会への願い

▼渡邊勇さん「ここから、私の願いの話をさせていただけたらなと思っています。私自身、『家族や友人、仕事のパートナーとか、そういう人たちが笑って幸せだったらいいんじゃないか』ぐらいの感覚で過ごしてきたんですけれども、今回の事件が起こってすごく感じたのが、『それだけでは駄目なのかもしれないな』ということです。」

「今回の事件を起こした方の動機とか、100%分かるところはないですけど、その人が幸福度が高かったとか、ハッピーな状態では、このようなことを起こしてないんちゃうかなと思うんですよね。」

「人を傷つけたりとか、人に攻撃している状態って、自分自身、何かこう不幸感を背負っているような感覚とか、何か自暴自棄になっているとか、そういう要素がすごく大きいんじゃないかなというふうに考えたり、感じたりしています。」

「何かを起こしてしまっている人がいたとして、その人が本当に大切に思っている人の存在を感じている状態やったら、踏みとどまれることがあるのではないかと、感じたりもしています。」

「例えば僕が何かをやってやろうと思った時に、やっぱり絶対、大事な人たちの顔が浮かんで、『そんなことあかんよね』と出てくると思うんです。」

「人との関わりであるとか、配慮であるとかそういうのってすごく、いろんな悲しい事件を起こす側の人が欠けている要素になっている可能性もあるんじゃないかなと、勝手に思っています。」

天国で妹に会ったら…被害者遺族としての“生き方”と“願い”

▼渡邊勇さん「私や母は、こういうふうに話をさせていただく役割をいただけていることで、実は自分自身のケアにもなっているのではと思っています。」

「僕が一番無念だったのは、あのとき、自分は駆けつけられなかったし、何もできなかったということです。僕にできることは何もなかったのかもしれないけど、駆けつけて何かを手伝いたかった。その無念さというのは、ある意味今回の講演みたいな形で、少しでもやれることがあるんだという役割を一つ与えていただけた。」

「自分自身が死んだ時に、妹に例えば天国という場所で出会えたとして、『どんな生き方したの』と聞かれたら、『依頼をいただいて、少しでもこういうことがないようにと活動できた』と言えるのか、『何もしてなかったな』となるか、結構大きな差があるんじゃないかなと思います。」

「やっぱり、あんな事件は起こってほしくないし、その後に模倣的なことであるとか、連続性みたいな事件があるのは、すごく悲しいことだと思うんですよね。」

「やっぱり人の繋がりでしか、フォローできないところなのかも知れないなと思いながら、それが少しでも育まれるきっかけに、改めて思い浮かべるきっかけになればと思いながら、こうして『願い』として話をさせていただいてます。」