華やかな江戸文化と、不正による「銀座」の消滅
江戸時代の銀座はすでに活気あふれる街でした。裏手には職人町が広がり、京橋川沿いには青物市場や竹河岸(建築資材の竹を売買する場)があって活発な水運流通が行われていたそうです。
現在の銀座通りとみゆき通りの交差点(尾張町周辺)には、恵比須屋、亀屋、布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する大繁盛ぶりだったといいます。
さらに、観世、金春(こんぱる)、金剛といった能役者の拝領屋敷があり、狩野派の画塾や、木挽町の芝居小屋(歌舞伎)など、文化人や役者たちが集う華やかな街でもありました。なお、のちに誕生する新橋芸者の源流は、この地にいた金春流の師匠たち(金春芸者)だと言われています。
銀座は幕府から銀貨鋳造を任された特権的な組織でした。しかし、その立場を利用した不正も起きます。
17世紀には、精錬した銀の量を実際より少なく申告する事件が発覚。幕府は次第に監視を強めていきました。
それでも銀座は独自の利益を追求する傾向を強め、1800年、幕府はついに銀座人を一新して、事実上の直営化に踏み切ります。翌年には銀座役所も京橋から日本橋蠣殻町へ移されました。
当時の正式な町名は「新両替町」でしたが、役所が去った後も人々が親しんだ「銀座」という通称だけがその場所に残ったのです(その後、1869年に正式な町名となりました)。














