あまりにも簡単に告げられた「娘の死」
Q.研修旅⾏へ出発する前の知華さんについて
知華さんの母親
まず、Fコースを選択した理由については、美術館で怖い絵を⾒るよりはきれいなサンゴ礁を⾒たほうが楽しいからと⾔っていました。実はその後、コースを変えたらと話していますが、すでに抽選も終わり(今年Fコースは他のコースに⽐べて昼⾷が豪華だったこともあり⼈気があって抽選でした)お友達とのグループもあるので、今更、私だけ変えられないとも⾔っていました。
出発前⽇は空港近くに前泊していました。空港まで⾞で3分ほどのホテルでしたが、朝から可愛くメイクをして、⾞中も終始楽しそうにはしゃいで話していました。遠⾜前の⼩学⽣のようなはしゃぎ⽅で、微笑ましく送り出しました。
Q.事故の知らせを受け取った当時について。
知華さんの母親
3⽉16⽇、11:59にお友達から着信がありメッセージが⼊ってきました。
「船が沈んで、知華ちゃん救急⾞で運ばれたらしい」
「学校から連絡あった?」
メッセージを⾒てすぐに折り返しの電話をいれました。
「乗っていた船が沈んじゃって、今、知華ちゃん救急⾞で運ばれたらしい、沖縄⾏くことになると思うから準備して」と。
私は、何が起こったのかよく理解できずとりあえず学校へ向かうことにしました。
研修旅⾏のしおりの持ち物には、帽⼦とタオル、⾬天時の⾬具のみしか書かれていなかった記憶があり、⽔着やシュノーケリングシューズなども書いていなかったので、転覆、と聞いても浅瀬で転覆し、サンゴにぶつかって怪我をしたのだと思いました。学校に到着し、事務室にとりついでもらい応接室で待つ間に主⼈に電話をつなぎ事情を話していると先ほど連絡くださったお⺟さまから
「知華ちゃん、⼼肺停⽌らしい⼼肺蘇⽣していたって」
とメッセージが⼊りました。その時はまだ転覆時間も、抗議船だったこともリーフエッジでの転覆だったこともわからなかったので、助かる、死ぬわけがないと⾃分を落ち着けようとしていました。主⼈も「抗議船って書いてあるから⼈違いだよ、修学旅⾏でしょ?」と⾔っておりました。12時36分に校⻑と事務員が⼊室してきた際、事務員の表情を⾒て私は⽬をつむりました。

校⻑は携帯を操作しおそらく病院名か死亡時刻を探していた様⼦で、淡々と携帯の画⾯を⾒ながら、「知華さんですが、さきほどえーと12時…29分に、えーと、どこの病院だっけな、えーと北部地区医師会病院にて死亡が確認されました」と告げました。17年間⼤切に⼤切に育ててきた娘の訃報はこんなにも端的に簡単に告げられるものなのかと絶句でした。
よく覚えていませんが、「いやです…なんでですか?なんで知華が…いやです…なんで…なんで…」と⾔い続けた記憶があります。
「ツアー会社が航空券を⼿配しますのでお⺟さまはとりあえずご⾃宅でお待ちください」と⾔われ、学校を出てすぐ、両親(知華の祖⽗⺟)、姉に連絡を⼊れ、知華の訃報とともに沖縄へすぐに向かってほしい旨を伝えました。
気が動転し、うまくしゃべれず「どうしよう、どうしよう、知華が死んじゃった。知華、死んじゃったって…、どうしよう」としか⾔えませんでした。

⾃宅に戻りすぐ、何とかして知華を起こせないかと思い、知華のベッドを何度もたたきました。起きて、⽣きて戻ってきてって⾔いながら何度も何度も…
その後学校から連絡があり、「神⼾空港17時半の⾶⾏機が取れました。ツアー会社のM⽒と空港で待ち合わせて沖縄に向かってください」っと、その後の経緯はnoteに記載した通りです。
知華さんの姉
13時前、⺟から不在着信が⼊っていました。
嫌な予感がして5分後に折り返すと、電話⼝の⺟はとても震えた声で、「どうしよう、ともちゃん死んじゃった、どうしよう」と⾔っていました。
知華が修学旅⾏に⾏っていることはもちろん知っていましたが、あまりにも現実味がなくて、私の第⼀声は「何⾔ってるの?」でした。
それくらい、すぐには理解できませんでした。
それでも⺟の声は震えていて、もしかしたら本当なのかもしれないと思い、知華の携帯の位置情報を確認しながら、「辺野古事故」と検索しました。
そこで最初に出てきた記事には、「抗議活動に参加中の同志社⼤学⽣らが乗る船が転覆」といった内容が書かれていました。
その瞬間、頭の中が疑問でいっぱいになりました。
「抗議活動?修学旅⾏中のはずなのに、どういうこと?」と、まったく状況が理解できませんでした。
さらに、その記事のコメント欄には、今でも思い出したくないような⾔葉が並んでいて、何が起きているのか分からないまま、深く傷つけられたことを覚えています。
その後、沖縄へ⾏く準備をしてほしいと⾔われました。
でも、パニックになっていて、最⼩限の荷物をまとめなければいけないのに、何をすればいいのか分かりませんでした。電話を切った後も、知華が亡くなったということを現実として受け⽌めることができませんでした。
思わず同志社国際に電話を⼊れ、校⻑先⽣に直接、「妹が亡くなったって本当ですか。なんでですか」と聞きました。
納得できる答えが得られないまま、⽬の前がどんどん真っ暗になっていき、いてもたってもいられなくなり、友⼈に来てもらいました。その⼦が来てくれたおかげで、なんとか少し平常⼼を取り戻すことができました。
⽻⽥まで⼀緒に⾞で向かってくれて、その道中も、少しでも早く沖縄へ⾏くために航空会社に電話をかけ続けました。それでも、⼀番早く取れたのは17時発の⾶⾏機でした。
知華のところへ⼀刻も早く⾏きたいのに、どうしてもすぐには⾏けない。その時間が本当に⻑く、苦しかったことを今でも覚えています。














