法制度の穴を埋めるジャーナリズム活動

しかしその後のていたらくは目を覆うばかりで、4半世紀が経ち空洞化は進み、しかもこの間、一度も実質的な改正がなされないために、3周遅れぐらいの情けない状況にある。

たとえば未だにデジタル対応はゼロで、申請も開示もすべてアナログである。また、情報公開の大前提は記録の保存と整理であるが、すでに様々な「事件」も発生しているとおり、主体となる政府は平然と公文書の廃棄・改竄・隠蔽を続けており、しかもまったく反省の色がないありさまだ。

多くの国ではまず記録法があり、その上に立って情報公開がなされるわけだが、日本の場合は公文書管理法(注3)ができたのが情報公開法に遅れること10年。開示の意識も希薄だが、そもそも記録を残すという意識が社会全体に欠如したままだ。その結果、政府は「重要な会議ほど記録を残さない」という悪い慣習を維持し続けている。

(注3)公文書等の管理に関する法律(2009年)は第1条で、「国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定める」と定める。

そもそも法制度上、文書の保存も開示も「行政文書」に限定されており、国会や裁判所にはこれらの義務はない。その結果、公開の法廷で行われる法廷の結論である判決文ですら、原則は非公開で裁判所自身が重要と思ったもののみ、マスキングが施された上、ウェブサイト上で公開されているにすぎない。

報道機関が判決内容を報じられるのは、あくまでも当該裁判所が「サービス」で法廷終了後に要旨や全文を配布するからである。今日現在の法解釈の基礎を作った重要な裁判の判決文を含む裁判資料でさえ、裁判所自らの手でごっそり廃棄されていたことも明らかになった(注4)。

(注4)最高裁判所「裁判所の記録の保存・廃棄の在り方に関する調査報告書」2023年5月。

だからこそ、ジャーナリズムの役割が他国に比して日本は一層重要になってくる。行政機関の重要な会議の内容は、報道されることで初めて社会に知らされ、記録として残ることになる。報道機関に配布された判決文は、いち早く新聞や放送で報じられ私たちは内容を知ることになる。本来であれば、きちんと記録・公開される制度が完備されていれば違った展開もあるわけだが、悲しいかな日本では、ジャーナリズム活動によって、社会の構成員たる市民が知っておくべきことの最低ラインをかろうじて守っているわけだ。

そして同じことは行政機関の1つである警察や検察にも当てはまる。一市民が公権力により身柄を拘束されること、公訴されることは一歩間違えば、極めて重大な人権侵害となりうる。逮捕状や起訴状は事後的であっても公文書として開示の対象になってもおかしくない代物である(実際、情報公開の対象である国も少なくない)。

しかし日本では、今般の再審法改正でもわかったように「司法の権威」を守るために絶対的な情報コントロール権を公権力が有し、それを手放すつもりは全くない(注5)。

(注5)再審法案(刑事訴訟法の一部を改正する法律案)が2026年6月に成立見込み。445条の5「再審請求者、弁護人又は弁護人であつた者は、前条に規定する証拠に係る複製等を、次に掲げる手続又はその準備に使用する目的以外の目的で、人に交付し、又は提示し、若しくは電気通信回線を通じて提供してはならない」と、新たに証拠の目的外利用を刑事罰付きで禁止し、報道を制限することになると危惧されている。2026年5月27日衆院法務委員会での小竹凱議員(国民民主党)の質問に対する佐藤淳刑事局長の答弁でも、記者会見で弁護団が開示された調書を全文読上げた場合は違反になる余地があると明言している。

法制度の瑕疵をマスメディアが尻拭いしているとも言えるし、全国あまねく取材網を敷いている報道機関に社会が甘えているとも言えるが、現実としてジャーナリズム活動が法社会制度に組み込まれて、総体的に社会全体で公的な情報を共有する仕組みが出来上がっているという現実がある。

こうした状況は選挙の仕組みにも言え、投票行動のための有益な情報提供の役割を立候補者に任せるのではなく、日本では特段にマスメディアの「選挙報道」に委ねる仕組みが出来上がっている(注6)。

(注6)選挙報道については別の回に詳述するが、候補者の表現活動=選挙活動を厳しく制限する代わりに、マスメディアの表現活動=選挙報道に大きな自由を与え、総体として選挙期間中の有益な選挙情報が社会に行き渡る仕組みを構築している。政見放送や選挙広告といった、新聞や放送を通じた世界に類を見ないユニークな情報提供もその1つ。