沖縄戦前年の1944年、米軍の魚雷攻撃を受けて沈み、1484人が犠牲となった、学童疎開船「対馬丸」。この船が沈むのを、同じ船団の別の船から見ていた女性が、今も沖縄で元気に暮らしています。幼い我が子とともに、疎開船「暁空丸」に乗船していた、與那嶺芳子さん(100)です。

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芳子さんは、目の前で沈む対馬丸の姿を今も鮮明に覚えています。

與那嶺芳子さん(100)
「生きると思わなかったもん。船と一緒に亡くなると思った」

沖縄本島中部、西原町に住む與那嶺芳子さんは、百歳。孫の亮太さんと暮らしています。地域の人気者の與那嶺さんに、通い慣れた公民館で話を聞きました。

暁空丸に乗った記憶をたどる與那嶺芳子さん

「(暁空丸に)乗ったとき、めまいがして座っていたの。子どもをおぶっているさ。長女が1歳の誕生日前だったから。おぶってずっと離さなかった」

1944年、沖縄戦の前の年。戦局の悪化に伴い、日本政府は沖縄の民間人や学童などを九州に疎開させる計画を立てました。

当時18歳の芳子さんは、生後10か月の長女をおぶり、疎開船「暁空丸」に乗りました。

「不安だったけど、主人が待っているさ。不安だったけど、楽しかった」

芳子さんの夫、清昌さんは、以前の戦争に徴兵されていたことで、太平洋戦争での動員は免除され、福岡県の八幡製鉄所で働いていました。

夫の清昌さん(前列右)

夫に会うことを楽しみに乗り込んだ暁空丸。およそ1日後、目の前に広がったのは、米軍の魚雷に攻撃され、沈みゆく対馬丸の姿でした。