常に死と隣り合わせ

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1920年に高松市で生まれた多田野さん。大阪市の工業学校を卒業後、航空整備科の予備練習生として横須賀の海軍航空隊に入隊しました。1941年、太平洋戦争が始まり、21歳で戦地に赴きます。

(多田野弘さん)
「出て行ったらもう戻って来られないかもしれないと。死ぬことを覚悟しなくちゃいかん」

第201海軍航空隊の一等整備兵としてラバウルやサイパンなど南太平洋の最前線に立った多田野さん。連合国軍との戦いで傷ついた、零戦の整備に明け暮れる日々でした。

爆発戦況の悪化につれ失われていく零戦と、仲間たち。整備の仕事も、常に死と隣り合わせだったといいます。

(多田野弘さん)
「戦闘機と爆撃機を合わせて100機を超える、敵の空襲が毎日ありました。毎晩、今日は大丈夫だったけど明日はひょっとしたら自分の番かもしれんぞと」