もしや戦犯の人々の遺体では

スガモプリズンで死刑になった東海軍司令官・岡田資中将

次に、遺骨が残されていた経緯について、久保山火葬場の飛田場長から話を聞いている。

<毎日新聞 1953年12月10日朝刊>
この久保山火葬場で五十三名が米軍関係取扱いで三年にわたり次々と火葬に付された時、火葬に当った火葬所員らが死体は明らかに日本人であること、また厳重なMPの警戒から”もしや戦犯の人々の遺体ではないか”と思い、飛田場長に相談した。米軍が遺骨を運び去ったあとに残った骨を集めて埋葬することにして、その都度、火葬場内の庭に設けた骨捨て穴に入れた。二十五年十一月八日、その場所に私費で『供養塔』と文字を刻んだ石碑を建て、ささやかに五十三名のめい福を祈っていた。塔は高さ四尺三寸(注・約163センチ)の白っぽい根府川石と二尺の伊豆石を台石とし、緑のヒバの木にかこまれている。