沢知恵さんとハンセン病療養所
(沢知恵さん)
「永瀬清子とハンセン病療養所の話をする前に、私、沢知恵とハンセン病療養所のことを少し聞いてください。
1971年の夏、私は生後6ヶ月で、香川県の高松から船で20分のところにあるハンセン病の国立療養所、大島青松園に初めて行きました。もちろん、記憶はありません。
父が学生時代にひと夏、大島青松園で過ごしたご縁です。
その後、父は戦後初めての日本人留学生として韓国に行き、留学先の大学で韓国人の母に恋をし、日本に連れて来て結婚しました。
父はキリスト教の牧師になり、私が生まれ、家族になった姿を大島青松園の皆さんに見せたかったのでしょう。
親戚はじめ周りの人たちは大反対しました。
『赤ちゃんは置いてけよ。うつったらどうするんだよ』
父はその反対を振り切って、『大丈夫だから』と言って私を抱いて連れて行きました。
1943年にアメリカで開発された特効薬プロミンが、戦後日本に入ってきて、治療法が段階的に確立されていきました。
『不治の病』と言われたハンセン病に、治る希望が見えたのです。
全員が治るまでには相当の時間がかかりましたが、1960年までには隔離の必要はなくなっていたと言われています。
そもそもハンセン病は感染力がきわめて弱い感染症です。
新型コロナウイルスやインフルエンザとは大ちがいです。遺伝もしません。
ただ、後遺症が見た目にあらわれやすいという特徴があったため、長い間恐れられ、差別と偏見が続きました。
隔離の法律『らい予防法』がようやく廃止されたのは1996年のこと。
約90年もの間、世界でも類を見ない長きにわたる国による隔離が続きました。
ちなみに、1996年は『旧優生保護法』が廃止された年でもあります。
そういうわけで、1971年当時、幼い子どもを見ることなどあり得なかったハンセン病療養所は、大フィーバーに湧きました。
療養所の中で出会って結婚をした方が多くいらっしゃいますが、子どもを持つことは許されませんでした。
結婚の条件として、まず男性が断種の手術を受けなければならなかった。
それでも身ごもってしまうケースが多くありました。見つかったら堕胎です。
そんな経験をした入所者の皆さんが、どんな眼差しで赤ちゃんの私を見つめてくださったのか。想像すると、胸が張り裂けそうになります。
私が高校生の時、父は癌で亡くなりました。
あまりハンセン病療養所の話をしてくれた記憶はありませんが、父が大島青松園のみなさんと文通をしていたことは知っていました」














