東日本大震災の発生から15年となるのを前に、被災地の宮城県警気仙沼警察署で指揮を執った元署長の佐藤宏樹さんが現役警察官の前で講演し、災害時の行動や心構えを伝えました。後編です。

2人の部下の殉職と「遺族への報告」

鹿折駐在所勤務の警部、2階級特進で当時52歳でした。
南部の大谷駐在所勤務の警部、同じように2階級特進当時30歳でした。
宮城県警全体では13名の警察官が尊い命を落として殉職しています。

52歳の警部は当日勤務は休みだったんです。
けれども大津波警報発令を認知して、直ちに駐在所に戻り、私有車両からミニパトに乗り換え、住民の避難誘導に出動しました。
その後、行方不明となり、1か月後、焼け焦げたパトカーのみ発見。本人は出動したまま、いまだ帰還していません。

また大谷駐在所の30歳の警部は大津波警報発令を受け、ミニパトで出動。
管内の小規模校で様子を見ていた住民に対し、避難を呼びかけていましたが、その直後、未曾有の大津波に巻き込まれ、当日の夕方遺体で発見されました。
当時「1名殉職、遺体発見1名行方不明」との報告を受けたときの本職の衝撃は未だに忘れられません。
「何かの間違いであってほしい」との一言に尽きました。
そして、最もつらく苦しかった瞬間は、遺体で発見された30歳の警部の奥様とそのご家族にその報告をしなければならなかった時です。
ご家族は、当初その行方がわかりませんでした。
しかし、山間部の農家の方々に救助され、まだ幼いお子様2人とともに家に避難しておりました。
避難先にお邪魔し、殉職の事実を告げなければならなかった瞬間、悲しみに絶望する奥様と小さなお子様の無邪気な笑顔。帰りの車の中で胸にも涙をこらえきれず。
こんな思いをするなら、署長になんかならなければよかったと思いました。

また行方不明となった52歳の警部の奥様には6か月ほど過ぎた時期に殉職手続きに入る旨のご説明に伺った際も、心が張り裂ける思いでした。
「うちの主人は出動したまま、未だに帰ってこないのです」奥様のこの一言には返す言葉が見つかりませんでした。


ここで30歳の警部の弔辞抜粋をご紹介します。
大切な仲間を失った警察署長の悲痛な叫びです。

気仙沼警察署全署員を代表し警部の御霊に謹んで申し上げます。
警部は発災と同時に、大谷駐在所管内で多くの人が集まる海沿いの施設の駐車場にパトカーで向かわれ、自らの危険も顧みず、また少しの躊躇もされることなく、駐車場にいた人々に一刻も早く高台に避難するよう広報を誘導し、たくさんの人々の
命を救われその責任を全うしたのでした。
「お巡りさんも早く」と叫ぶ住民の声に、パトカーを高台に向けた瞬間未曾有の大津波が警部の乗車したパトカーを飲み込もうとしましたが、車から脱出、全速力で走って高台に避難されようとしました。
しかし、無情にもあまりに巨大な津波が警部を飲み込んでしまったのです。
着任後わずか1年足らずの間に地域にすっかり溶け込み、住民の方々に今までで最高の駐在さんだと言わしめたお人柄は、まさに警察官の鏡であり、幹部警察官として将来を大いに嘱望されていたのでありました。
しかし、あの大震災の大津波は30年というあまりにも短すぎる生涯を一瞬にして奪い去ってしまったのです。
警部の無念さと奥様、お子様、ご遺族の皆様方のご心中を察するとき、私どもは語る言葉を持ちません。
我々は崇高な志を引き継ぎ、この大震災に全力で立ち向かい、職務を立派に全うすることが、ご功労に報いる唯一の方法ではないかと考えております。
在りし日の笑顔をしのびつつ、ここに謹んでお別れの言葉を申し上げます。
志は、残された我々が何としても成し遂げます。
どうか安らかにお休みになってください。

今後もこの強烈な悲しみと無念さ、これを未来に伝承し、殉職防止に全力を尽くします。
しかしこの悲しみは絶対に癒えることはありません。
未来永劫にわたり、このお2人をこの双肩に抱えて生きていかなければならないのです。