なぜパンダや中国を支援?
日中戦争が始まった1937年。この年、釧路市に生まれた矢野さんは、3歳で中国、当時の満州へ移ります。父親が飛行機の製造会社に招集されたのです。

旧満州には日本人街と中国人街がありましたが、両親がよくボランティアで中国人街を訪れていて、矢野さんも連れられ、交流を深めました。

四川省公認パンダ大使 矢野美恵さん
「こまを回して遊びましょうとか、それから凧とか」
社宅で不自由なく生活していた矢野さんですが、敗戦によって人生は大きく変わります。当時7歳でした。
四川省公認パンダ大使 矢野美恵さん
「天皇陛下のあのお言葉もみんな公園に集まって聞いた。(天皇陛下は)淡々と喋っていて、それはもう耳に残ってますよ」
矢野さん一家は、日本へ引き揚げるために鉄道に乗って港へ向かいました。
四川省公認パンダ大使矢野美恵さん
「石炭運ぶ列車って知ってます?屋根がない無蓋車。あれに乗って中国から脱出するときに、逆に私達はそれで良かったんです。だけど、無蓋車じゃなくて(屋根のある)列車に入れられて引き揚げてくる人は、列車に入るとがしゃってドア閉められるんですよ」

トイレ休憩で一時停車し、屋根がある貨車のドアが開くと、その光景は今でも鮮明に覚えています。
四川省公認パンダ大使矢野美恵さん
「半分死んでた、屋根のある列車から出てきたら。ほとんど蒸れて死ぬんでしょうか。落とされるんですよ。(列車から)投げられるんですよね」
過酷な逃避行でしたが、その中で食べ物や衣服を調達できたのは、現地で親切にしてくれた中国人の助けがあったからでした。
四川省公認パンダ大使矢野美恵さん
「父の信頼関係があって、(中国人が)家財を全部買ってくれた。そのお金があったから、ちゃんと北海道まで着いた」
「これだけの恩人がいるっていうことなので、第一の故郷は中国」

矢野さんが中国人へ感謝し続ける理由です。
2000年から現地の飼育施設などに赴き、義援金を渡してきた矢野さん。絶滅の危機に瀕していたパンダですが、中国はその数を増やすことに成功しました。














