戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。太平洋戦争当時、沖縄から九州に向う途中でアメリカ軍に撃沈された疎開船「対馬丸」。父親を亡くし孤児となった男性が、いま伝えたいこととは。
子どもたちの言葉に静かに耳を傾ける喜屋武盛宜さん(90)。81年前、当時9歳で学童疎開船「対馬丸」に乗船し、アメリカ軍の魚雷攻撃を受けました。
喜屋武盛宜さん
「当時、5歳か6歳くらい。思い出はないけどね」
両親や妹とともに対馬丸に乗船していた喜屋武さん。船の後方で眠りについていた一家は突然の衝撃音に目を覚まし、気が付いた時には父親と親戚の女性3人で海に浮かんでいたといいます。
喜屋武盛宣さん
「親父としては3人が助かるのは無理だと思った。つかんでいた真綿の袋には。おばあさんは自分は離れないと言って動かない、親父がかわいそうになって自分が離れた。板が流れてきたから。そしたら1分もしないうちに父も離れた、それっきり親父とは」
一晩中漂流したのち、近くを通った漁船に助けられ、一命をとりとめました。その後、母親と妹と無事再会できたものの、母親は1年もたたずに栄養失調で死去。喜屋武さんは孤児となりました。
喜屋武盛宜さん
「(母の)最期は妹と二人で。火葬場で焼かないといけない。棺おけもないからリヤカーを借りて、リヤカーに母を積んでね、二人で。そうやってリヤカーを引いて火葬場まで行った」
5年ぶりに対馬丸の慰霊祭に参加した喜屋武さん。
喜屋武盛宜さん
「手を合わせた。言葉はないよな。(Q.お父様に何か伝えたことは?)俺もいくからなと、ただそれだけ」
国策によって翻弄された子どもたち。慰霊祭で多くを語らなかった喜屋武さんですが、言葉には静かな怒りが込められていました。
喜屋武盛宜さん
「だまされたんだから子どもも。将来は兵隊さんになるといって。子どもをだますのは簡単だから、政治家は。すまんという気持ちがあるからね、生き残った人間は。苦労したが、苦労も楽しいから、生きていたら」
戦争によって奪われた子どもたちの未来。生存者が背負ってきた心の痛みは、今も消えることはありません。
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