入所者たちがいのちをかけた詩に真剣に向き合った永瀬清子

邑久光明園

(沢知恵さん)
「私は永瀬清子が機関誌『愛生』と『楓』に書いた詩の選評のすべてに目を通す機会を与えられました。

圧倒されました。永瀬清子は半端ないです。

膨大な時間とエネルギーを要する仕事をなさったことがわかります。

ハンセン病療養所の人たちは、一篇一篇、いのちをかけて詩を書きました。

それにひとつひとつ真正面からこたえ、あなたのこの言葉をこうするといいよ、ここはよかったけど、ここはもっとこうして、と熱く熱く書いています。

永瀬清子がハンセン病療養所にかかわった1950年代から60年代にかけては、療養所の歴史において大きな転換点と言える時期でした。

先ほど申しましたように、特効薬が入ってきて、ハンセン病に治る希望が見出されました。

その希望は療養所を明るく照らしたのです。

にもかかわらず、戦前から続く『癩予防法』は、1953年にほぼそのままのかたちで『らい予防法』に改正されました。

予防法反対と療養所の生活の待遇処遇の改善を求めて、全国の療養所の入所者たちが立ち上がり、政治闘争をくり広げました。

ハンスト、国会前の座り込みなど、不自由な体を張って闘いました。

それと連動するように、文芸、音楽、美術など、療養所での自己表現もますます盛んになっていきました。

毎月発行された全国の療養所の機関誌や文芸誌には、詩や短歌、俳句、随筆、小説など、たくさんの文芸作品が寄せられました。

永瀬清子の詩の選評の中からいくつか紹介をします。

「一般にうまい云い廻しをしやうとせず直截に自分の気持ちをおかきなさい」。(『愛生』1949年12月号)

『のぞみとは』という詩に対して、永瀬清子はこんな風に書いてます。

『のぞみを持つことは、ことにこうした病気におかかりの皆様にとつてはむなしいことかもしれません。しかし人間はやはり一歩一歩望みなしには生きてゆけませんし、またその望みを持つていいのだと思ひます』。
(『楓』1953年4月号)

『病むにしても健康にしても一ぺんしか経験できないこの世のこと、病む人ならでは書けぬするどい、また優しい眼をもつて書いていてください』。
(『愛生』1953年11月)

永瀬清子は、子どもの詩にも選評を書きました。長島愛生園には、愛生学園という小学校、中学校がありました。

小学2年生の男の子が書いた『ばつた』という短い詩があります。

くさの中で
ばつたを みつけた
そのばつたは
小ちやい子どもを
せなかにせおつていた
ぼくはなんだか しらんけど
つかまえて ころした

永瀬清子はそれに対してこう書いています。
『大変正直にかいているのでするどさがあります。正直さが大切です。でもやはりばつたは殺さないでね』。
(『楓』1955年2月号)