永瀬清子とハンセン病療養所

永瀬清子さん

(沢知恵さん)
「いよいよ永瀬清子です。

永瀬清子は1906年、岡山県の現在は赤磐市熊山に生まれました。
ハンセン病の最初の法律『癩予防ニ関スル件』が制定される1907年の前の年にあたります。

2026年に、永瀬清子は生誕120年を迎えます。

2歳の時、お父様のお仕事で石川県の金沢に移りました。そこで10代半ばまでを過ごします。

名古屋、結婚してからは大阪、東京と移り住み、1945年の初めに岡山に来ました。
3月の東京大空襲はまぬがれたものの、6月の岡山大空襲は経験しています。

その後、岡山市内から赤磐へと移り、農業と子育てをしながら詩を書きました。

永瀬清子の名前が岡山県瀬戸内市にあるハンセン病療養所、長島愛生園の月刊機関誌『愛生』に、詩の選者として最初に登場するのは、1949年8月号です。

入所者たちが書いた詩を選んで、評を書くという仕事です。
永瀬清子は43歳。その年の3月に、第1回岡山県文化賞を受賞しています。

永瀬清子は詩人の藤本浩一らとともに詩の選を行っていましたが、バトンタッチをするようにして、やがてほとんどひとりでやるようになりました。
1964年まで約15年間続けました。

同人誌『黄薔薇』が創刊された1952年からは、長島愛生園の隣にある邑久光明園の機関誌『楓』の詩の選も行いました。

永瀬清子は、生涯に18回、長島に通った記録があります。橋のかかっていない時代です。

1988年に邑久長島大橋が開通した年に訪れたのが最後となりました。

永瀬清子がハンセン病療養所に深くかかわったことは、最近まであまり知られていなかったように思います。自筆年譜にも出てきません。

これほどまでに深くかかわったのに、なぜそのことを年譜に書かなかったか、不思議です」