終戦直前に長野市が標的にされた長野空襲からきょうで80年です。空襲を語る集いが開かれ市民が当時の状況を証言しました。

長野市で開かれた長野空襲を語る集いでは最初に60人余りの参加者が黙とうしました。


1945年8月13日の早朝から午後にかけて続いた米軍機による空襲は、長野市の当時の飛行場や駅などが標的とされ47人が犠牲になったとされています。

長野市の小野塚健夫さん・91歳は、長野飛行場近くの自宅から軍用機が爆撃されるのを目の当たりにしました。


小野塚健夫さん(91):「(軍用機が入っている)掩体壕(えんたいごう)に向かって(米軍機が)まっすぐ降りてきます。途中でロケット弾を離します。まず真っ赤な火柱が10メートルぐらい吹きあがります。その時にめちゃめちゃに飛行機は飛ばされる。黒煙が盛り上がってそれが50メートルぐらいまでいきます」

今年はあわせて4人が実際の体験や家族から聞いた空襲の様子を語りました。


現在の長野市篠ノ井で空襲体験 村田美津子さん(90):「グラマン(米軍機)の急降下してくる時の轟音ってすごいんですよ。防空壕なんてのは名ばかりで逃げ込むほどものではないので押し入れに隠れました」

空襲を語る集いは今年で40回となり、主催者は今後も若い世代への継承に力を入れていきたいとしています。