「本当にラッキーだった」

春男さんの強制労働先は炭鉱から自動車整備工場へとかわった。そこで事務を担当していたのがターニャだった。

彼女の存在も大きかったが、何より労働環境は劇的に好転した。「本当にラッキーだった」春男さんは言葉を選ばずにそう呟いた。

極寒での肉体労働は、まさに命を削る行為そのもので、残された生きるための余力を少しずつ奪われるものだった。現代に照らし合わせれば、死と隣り合わせのブラックそのものの非人道的な労働環境だった。

劣悪な環境下での肉体の酷使だけでなく、ソ連兵の監視下での精神的な抑圧は確実に多くの人を死に追いやった。シベリア抑留者約57万5000人のうち、亡くなった人は約5万5000人。

シベリアに強制送還されていなければ、母国の土を踏んで、未来の日本を担っていくだろう若者達も多数含まれていた。そのリスクが減っただけでも、春男さんは嬉しかった。シベリアに連行されてから、常に突きつけられていた死の恐怖が和らいだのだから、当然の感情だったろう。

新たな労働はロシア語で「自動車をすべて解体しろ」という指示から始まった。ソ連兵の指示に従い、工具を使って自動車をばらし、構造を確認させられた。車は主に作業用トラックで、ボティ、エンジン、ハンドル、アクセルなど、意外に単純な構造だったと振り返っていた。