覚えたてのロシア語で…土下座をして懇願

言葉を理解できたことは、春男さんにとって大きな武器となった。ソ連兵と会話できるようになったからだ。日常生活で意思疎通を図れたことで、ソ連兵からも一目置かれるようになり、いつしかソ連兵は春夫さんに話しかけるようになっていた。

その春男さんが一世一代の大勝負に打って出た。収容所の所長の部屋に行き、ある嘆願をしようと考えていたのだ。春男さんは意を決し、所長の部屋に向かった。

「捕虜の分際で何を言うのだ。生意気な日本兵め」そう咎められ、交渉は決裂し、逆にペナルティを与えられてしまうのではないかという一抹の不安がよぎった。それを打ち消しては浮かぶ予測を何度も何度も脳から消去した。

気づけば、所長のドアの前にいた。ドアをノックすると「入れ」と指示を受けた。ロシア語で挨拶をした後、単刀直入に言った。それは「貧相な食事を改善してほしい」という要望だった。

「実は、どうしても伝えたいことがあります。ノルマを達成できないのは食事の量が足りないからです。もっと増やして下さい」

強い口調で懇願した。もちろん、覚えたての朴訥としたロシア語で。無我夢中だった春男さんは、さらにソ連兵を前に額を床に擦りつける勢いで土下座した。