戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。来週23日は沖縄の慰霊の日です。沖縄戦は激しい地上戦となり、幼い子どもも戦禍にさらされました。当時0歳で銃弾を浴びた男性は80年前と今を重ね、二度とあの悲劇を繰り返してはいけないと強く訴えています。

アメリカ軍機が飛び交う嘉手納基地の前に立つ一人の男性。基地を抱える町、北谷町で16年間、町長を務めた野国昌春さん(80)。フェンスに覆われたその先に、80年前、野国さんが生まれた場所があります。

野国昌春さん
「このゲートから1キロ先くらいに我々の生家がある。旧字上勢頭があった。そこで、まとまって生活していた。戦争で散り散りばらばらになった」

沖縄戦の直前、1945年3月9日に北谷町で生まれた野国さん。母・ツルさんは、我が子をおぶりながら戦場を逃げ惑いました。

野国昌春さん
「生まれて1か月もしないうちに、上陸して、逃げまどった。栄養も不足しているから、おっぱいも出たかわからない」

壕に避難したものの、生まれてまもない赤ちゃんは空腹で泣き続け、家族は壕を追い出されてしまいます。

母と姉とともに戦場をさまよう中、銃弾が野国さんの右足を貫通します。

野国昌春さん
「防空壕に隠れていたが、日本軍に体よく引き出されて、さまよっているうちに銃弾があたって、僕の太ももから母親の手の甲に貫通した。数センチでもずれていたら、母親も僕も命はない」

母と野国さんは、すぐに野戦病院で手当てを受け、命に別状はなかったものの、沖縄戦では2人の姉を亡くしました。

野国昌春さん
「僕は80年前に生きて、今の平和な時代を生きているが、姉たちの人生が全く戦争でなくなって、生きていれば、どんな人生を送れていたかなと」

幼い子どもであっても容赦なく巻き込まれる戦禍の現実。野国さんは80年前と今を重ね、あの悲劇を繰り返してはいけないと訴えます。

野国昌春さん
「戦争になってしまったら、ウクライナやガザの戦争を見てわかるように軍事施設だけでなく、民間施設もどんどん攻撃される。結果として、民間人や子ども、赤ちゃんまで、みんな死んでいく。あってはいけない。二度と繰り返してはならない」