太平洋戦争末期の昭和20年5月10日。

山口県岩国市と和木町にまたがる岩国陸軍燃料廠が、アメリカ軍のB29による爆撃を受けました。この空襲で356人が亡くなり、中には10代半ばの若者も含まれていました。空襲の体験者、遺族、後輩、80年の節目に平和への誓いを新たにしました。

岩国陸軍燃料廠は80年前の5月10日、アメリカ軍の空襲を受け356人が亡くなりました。学徒動員で働いていた10代の若者も含まれていました。岩国高校の前身、岩国高等女学校と岩国中学校で12人、岩国工業高校の前身、岩国工業学校では生徒ら9人が犠牲になりました。

岩国高校には亡くなった友の記憶を刻もうと、戦後27年を経た1972年に同級生が建てた慰霊碑があります。毎年、献花の集いが行われ今年は在校生や同窓生など70人が参列しました。

岩国高校同窓会 國清 宏副会長
「どうしたら平和を築き上げてそれを続けることができるのかを考えて、大人になっていってほしい」

岩国高校 西田彩矢生徒会長(3年)
「戦争によって命を落とすことは一切あってはならないこと。世界で起こっていることを他人ごとと思わず、これからの平和な世界の実現に向けて、たゆまぬ努力を続けていくべき」

爆撃が始まった午前9時45分。岩国陸軍燃料廠からおよそ1.5キロ離れた寺で鐘が響き、参列者が燃料廠の方角を向いて手を合わせました。和木町の養専寺では毎年、顕彰法要を行っています。

村岡瑠璃子さん(86)は6歳のとき、叔父の山尾孝さんが14歳で空襲の犠牲になりました。

柳井市 村岡瑠璃子さん
「涙が出る。もう何十年もたっているのに。よく遊んでもらったり、教えてもらったり、いろいろかわいがってもらっていた。ほんと一番好きでした。やっぱり戦争はだめですね。ケーキを買って、お供えしようと思っている。たぶん食べたことないと思う、あの時代に」

広島県世羅町の宮田幸三さん(95)は燃料廠で働いるときに空襲に遭い、なんとか生き延びました。

宮田幸三さん
「ヒューヒュー、ヒューヒュー、音がしてね。落ちてきた爆弾は出刃包丁を焼いたような、散らすように火の断片が飛んでいくのを私は見ました。生きた心地はなかった。次から次と繰り返すように編隊が現れたり(爆弾を)落としたり」

黒煙が立ちこめ、昼間なのに真夜中のような闇の中、同級生を捜し歩いたといいます。

宮田幸三さん
「あれから80年もたって、まだ生かしてもらっている」

戦後20年に150人だった顕彰法要の参列者は次第に減り、当時を知る人も少なくなりました。

戦争の悲惨さを語り継ぎ、平和への誓いを新たにする貴重な1日です。