NBC長崎放送では、被爆80年の今年、これまで取材してきた千人を超える原爆被爆者の声を改めて掘り起こし発信しています。被爆者団体「長崎原爆被災者協議会」と協定を結んだ被爆80年「世界プロジェクト」推進の一環です。
被爆当時15歳だった葉山利行さん。国鉄長崎機関区で機関助手の見習いをしていました。爆心地から約2キロの長崎駅で被爆、重傷を負い自宅に帰れないまま駅前にあった防空壕へ避難しました。
被爆直後に見た、「ある母親の姿」が忘れられないとつぶやいた葉山さん。それは、首から上がない我が子を必死にあやす姿でした。
1947年(昭和22年)に国鉄を退職。土木作業員、造船の下請け工員などとして働いていましたが、体調を崩し1958年(昭和33年)から2度に渡って入院しました。
1961年(昭和36年)からは長崎原爆被災者協議会の事務局長として、同じ被爆者の苦しみに寄り添い続けました。
「被爆者援護法」を国に制定させる運動のほか、国連や核保有国に核兵器廃絶を訴える活動の先頭に立ち、長崎の被爆者運動のリーダーとして、反核・平和運動に力を尽くしました。
葉山利行さんは、長崎被災協会長だった2005年(平成17年)に75歳で亡くなりました。(1992年撮影)