新潟市出身のある元日本兵が記した戦争の記録。
戦後77年の時を経て、ことし春、その存在が明らかになりました。
ここに記されていた戦闘の詳細は戦争のむごさ、不条理を私たちに突きつけてきます。この記録を紐解き「平和」とは何かを考えます。
「『アブナイ』といって右手で私の左肩を突いたので、私は思わずレンガの壁の影に飛ばされた。同時に曹長は胸部を貫通されて即死」
生と死が隣り合わせの生々しい戦争の記録。ノートやメモ、当時の写真など戦争にまつわる資料の数々。

記録を残したのは新潟市中央区沼垂出身の竹石三男さんです。
三男さんは1935年1月、新発田市の陸軍歩兵第16連隊に入隊。その後、歩兵第215連隊に配属。

1939年4月に中国・武昌に上陸した後、中国やビルマ(現・ミャンマー)などを転戦しました。

三男さんが書き記した戦場での体験には、自身が身を隠していた壕のわずか1メートル先に迫撃砲が着弾し、班長が戦死した様子のほか…

「仮に敵であっても私は老人、婦女、赤子は殺せない。私はこれを強制されるならば将校失格であろう」
戦時中でも人としての理性を必死で保とうとする葛藤も垣間見えます。

こうした三男さんが残した大量の資料の存在が明らかになったのはことし4月のことでした。
【竹石三男さんの甥 竹石松次さん】「これが中国の戦いの記録」
親族から三男さんの甥、竹石松次さんに送られてきたそうです。
【竹石三男さんの甥 竹石松次さん】「プロームの夜襲戦の戦記を読んで、これはすごい、戦争体験者しか分からない、本当の戦争の現場なんだなというのを改めて感じた」

竹石さんは叔父の三男さんが残した記録を再構成しことし8月、本にまとめました。

三男さんが残した詳細な記録や日記を読み込んだ竹石さんにとって、特に印象に残った箇所がありました。
【竹石三男さんの甥 竹石松次さん】「新潟の港から出ていった時、(三男さんは)新婚だった。当時の隊長が『君、新婚で悪いけど頑張ってくれよ』という言葉をどんなふうに聞いたのか。個人の自由っていうのが戦争の中ではまったく取り入れられていない。無視されていた、そこが恐ろしさ」
三男さんが残した数々の戦争の記録の中で、そのむごさや当時の様子を細かく記しているのが1942年のビルマ中部の街、プロームでの夜襲戦についてです。
「突然、私の脇にいた敵兵が逃亡した。軍刀の鞘を払って彼の背後から斬撃した。白刃は月光花に冴えて、敵の右肩から首にかけ鋭く喰い込んでいた。かすかなうめきがした。四、五名の兵士が期せずして一勢いに、その敵を刺突した」

中隊長として指揮にあたっていた三男さんはこの戦いで負傷し、野戦病院での療養を余儀なくされます。この夜襲戦の記録は野戦病院で療養中にまとめられたとみられます。

三男さんはこの負傷によりその後、多くの死者を出したインパール作戦への参戦を免れ、奇跡的に日本への生還を果たします。三男さんは1947年12月、長崎・佐世保に復員。
その後、団体職員を経て2008年に94歳でその生涯を終えました。