東京大空襲から復興 川を暗渠化し、東洋一の歓楽街へ

歌舞伎町の礎を築いたと言われるのが、実業家であり大地主だった峯島喜代(みねしまきよ)さん。もともと質屋を営んでいた峯島さんは不動産業に着手し、明治44年に歌舞伎町エリアの土地16000坪を購入。雑木林を伐採し、点在していた池を埋め立てて宅地化しました。しかし、当時の土木技術では「蟹川」の暗渠化が不可能だったため、今のような歓楽街までの発展には至らなかったそう。
宅地化が進んだ昭和初期には、学校や商業ビルが立ち並ぶようになり、住宅街として発展。しかし、東京大空襲によって街が一変してしまいます。そこで、街の復興に向けていち早く動いたのが、歌舞伎町の前身である角筈(つのはず)一丁目北町の会長・鈴木喜兵衛(きへい)さん。多くの土地を所有していた大地主・峯島さんを説得し、先進的なエンターテインメントの街にするため尽力しました。

さらに、当時新宿2丁目で賑わっていた遊郭が歌舞伎町へ流れてきたことにより、街はさらに発展。当初は歌舞伎の劇場も建設予定でしたが、戦後の資材不足や財政難により頓挫。その計画の名残が、街の名前の由来となっています。
「川の暗渠化は、歌舞伎町が東洋一の歓楽街になるきっかけの一つ」と言う道マニア。
かつては森や川が存在し、発展から取り残されていた歌舞伎町は、鈴木さんの信念と情熱により、東洋一の歓楽街へと発展を遂げました。














