沖縄戦から80年が経ちました。沖縄の80歳以上は、人口の7%です。日本全体でも90%が戦後生まれになり、近い将来、戦後世代しかいない沖縄がやってきます。【戦後80年 #あなたの623】は、胸の奥にしまい込んできた辛い記憶、家族のなかで避けてきた戦争の話題、今しか話せない大切なこと、今だから話せる戦争のことを聞いていく、シリーズ企画です。シリーズ7回目でお伝えするのは、与那国島で戦禍を生き抜いた89歳の大朝ハツ子さんです。当時10歳の少女から日常を奪ったのは、空襲でした。

住民を守った「ダヤ」

「ダヤ」は、与那国島の言葉で「ガマ(壕)」を意味する言葉です。80年前、与那国島では多くの住民が島各地のダヤで命を守り抜きました。

与那国島の「ダヤ」


大朝ハツ子さん、89歳。10歳で空襲を経験し、ダヤに避難し戦禍を生き延びた一人です。

▼大朝ハツ子さん(89)
「弾というのも見たことなくて分からないから、ただヒュヒュヒューという音は聞いてるんですけど。みんなが騒いでるからもう逃げるしかないですよ、10歳だからね」

1944年10月10日。
米軍が沖縄本島などを攻撃した「10・10空襲」。この3日後、大朝さんが暮らす久部良集落は、島で初めて空襲を受けました。カツオ漁で栄えた久部良。狙われたのは、米軍が大きなカツオ工場を日本軍の施設だと勘違いしたからだともいわれています。

この日大朝さんの家では、祖父がヤギを振る舞う予定で、家族や集落の20人ほどが庭に集まり、穏やかな時間を過ごしていました。

▼大朝ハツ子さん(89)
「ちょうど(妹を)おぶって、向こうで遊ぼうと歩き始めて、飛行機の音がしたんですよ。今ここ(与那国空港に)来ている小さい飛行機ね、多分それくらい(の大きさ)しかなかったと思う」

提供:1フィート運動の会


幼い大朝さんは妹をおぶったまま、防衛隊に習った通り、家の裏のダヤに急いで逃げ込みました。この日以降、断続的に続いた空襲。その度にダヤに逃げ込みましたが、ある時、その場を離れない住民を目にしました。