太平洋戦争末期に大村市や諫早市で展開された空中戦を取り上げます。犠牲となった日米双方の軍人を慰霊し続ける人たちの思いです。
去年11月21日、市民や自衛隊、アメリカ海軍の関係者らが、諫早市高来町の山奥にひっそりと建つ慰霊碑を訪ねました。

(日米友好追悼の会 犬尾博治 名誉会長)「ここに死体があったっていうわけですよ。」
大村にあった戦闘機航空隊の坂本幹彦中尉の遺体が見つかった場所。80年前のこの日、零戦で出撃し、アメリカの爆撃機・Bー29に体当たりし亡くなったとされています。21歳の若さでした。同じ日、およそ9キロ離れた諫早市小長井港そばでも同じ人々によって追悼式が行われました。

(諫早商業高校生徒会長 末岡志帆さん)「日本人だけではなく、その他の多くの国の方々も戦争の犠牲となりました。この慰霊碑に祀られているのもアメリカの方々です。」
小長井港沖には、零戦の体当たりを受けたとされるBー29が墜落。犠牲となった11人のアメリカ兵も弔っています。
(日米友好追悼の会 犬尾博治 名誉会長 )「11人乗組員がいるのに、まだその時は4人の死体をですね、裸にして道端に並んで寝せてありましたね。」
10歳の時、墜落したBー29を見に行った犬尾博治さんは、日米双方の犠牲者を慰霊し続ける一人です。当時、そこにいた多くの人が敵意を持って見ていたと言います。しかし…
(日米友好追悼の会犬尾博治 名誉会長)「ちょっと戦後になればもうすぐ、なんというこんなひどいことをお互いにやったもんだと」
日米双方の犠牲者の慰霊は、荒川明継さんの父・斗苗さんが呼びかけました。
元陸軍大尉だった斗苗さん。中国から帰還後、坂本中尉の遺体が見つかった自宅近くの山中に木柱を建て弔い始め、その後、アメリカ兵の鎮魂碑建立も働きかけました。

(日米友好追悼の会 荒川明継 会長)「(父自身が、亡くなった)戦友をこっちに連れてきらんやったっていうのがどっかに残っとったんじゃないかなと思うんですよね。(空戦で亡くなった)アメリカ兵の方も戦友に重ね合わせて、なかなかね、放ってはおけないっていう気持ちになったんじゃないでしょうかね。」
戦争のために異国の地で失われた命。追悼式では長い間行方不明とされていたアメリカ兵の遺族からの手紙が紹介されました。
『日本の皆さんが父と乗組員に示してくださった優しさと敬意は信じられないほどで、感謝の言葉以外、何と申し上げてよいかわかりません』
去年夏、この時の空中戦を記録した資料が新たに見つかりました。
諫早市美術・歴史館の専門員・大島大輔さんが、防衛研究所が所蔵する資料を閲覧し、見つけ出しました。

(諫早市美術・歴史館 大島大輔 専門員)
「坂本中尉が亡くなられたりとか、その戦闘に関しての資料というのはあったんですけれども、より詳細な戦闘報告、どういう編隊だったのか、どういう行動をとられたのかっていう資料を見た時にですね、わっ!というのが」
1944年10月25日大村に初めてBー29が来襲。大空襲でおよそ300人が犠牲になりました。さらにBー29は、11月21日にも大村や諫早上空に飛来し、空中戦が繰り広げられました。当時の日誌からは、この日、坂本中尉が並々ならぬ覚悟で出撃したことが伺えます。

『坂本中尉ハ當日出發直前部下ニ對シ本日攻撃効ヲ奏セザル場合ハ最後ノ手段ダル体當リヲ敢行スル旨言明セリ』
そしてこの日の迎撃で亡くなった日本兵が坂本中尉の他にもいたことが確認され、名前も判明しました。
(諫早市美術・歴史館大島大輔 専門員)
「体当たり1、自爆2、戦死者が3名。体当たり1機っていうのは坂本中尉のことで、自爆2機って書かれているのが、今回新しく名前がわかったお二人のことだろうと」
名前の読み方まではわかりませんが、坂本中尉と同じ部隊に所属していた二人が、迎撃の末、自爆。
また、この日、同じくBー29に応戦した大村海軍航空隊にも一人の戦死者が確認できます。80年の節目となった追悼式では、慰霊碑に新たに判明した3人の名前が記されました。

(犬尾さん)「こういう事実があったということだけは伝えてほしいと。戦争っていうのは汚いもんだ、嫌なもんだ、ひどいもんだということをある程度本当に知らなければ平和にはならない。こんなところに死体が落ちていたんですよ。」
戦後80年、悲惨な史実を伝え、平和を誓う取り組みが続いています。














