今年元日に発生した、能登半島地震から、まもなく1年。
9月には、豪雨災害にも見舞われ、被災地は、今も復旧・復興に向けた、厳しい状況が続いています。
そんな石川県珠洲市で、逆境に負けず、闘い続ける高校生ウエイトリフティング選手たちがいます。
彼らを支える、岩手出身の女性指導者を追いました。

「ガチャン!(金属音)あいもっと、はいオッケー!(浅田さん)」
「Q.これは何キロですか? A.20 キロです。
Q 一個で?二個で? A 一個で片方で 20 キロです。Q まじか・・・」

仮設住宅に隣接する練習場に、声が響きます。
石川県珠洲市、飯田高校ウエイトリフティング部とSUZUDREAMCLUB。
この日は合わせて10人ほどが汗を流しました。
指導するのは、女子重量挙げ元日本代表の浅田久美さん。

「Q釜石への思いは強いですか?
A そうですね、やっぱり生まれた場所ですし」

釜石市鵜住居町の出身。
ふるさとは東日本大震災で大きな被害を受けました。
あの日、叔父の自宅が被災。別の親族は津波から逃げ遅れ、命を落としました。

「階段があるんですよ、階段上っていけば鵜住居の子供たちが最終的に逃げた場所なんですよ、だから絶対助かるはずだったんですよ。ゆっくりでもいいから、階段上がってくれれば良かったんですよ」

浅田さんは女子重量挙げの元選手。
現役時代は全日本選手権12連覇、世界選手権で3大会連続、銀メダルを獲得、数々の偉業を成し遂げてきました。
2000年に現役を引退、日本代表の監督として、オリンピックメダリストも指導してきました。

「ここも一緒なんです。海があって、山があって。だからここに来た時も、全く持って違和感が無くて。釜石と一緒って思って」

夫の故郷、珠洲市に移住し、重量挙げの子ども教室を開いたのが、2012年。
珠洲市から、世界へ・・・。
高校生選手の育成にも力を注いできました。
しかし…。

元日に発生した能登半島地震。
震度6強の大きな揺れが彼らの拠点を襲いました。
石川県や珠洲市のまとめによると、6日までに犠牲者は災害関連死を含む146人。
被災家屋は全壊・半壊・一部損壊合わせて5572棟。
仮設住宅の建設は9月の豪雨の被災者分を含め、2024年度中にようやく完了する見込みです。
被災直後は指導する子供たちの練習環境も一変。
練習場は、応援職員の待機場所として使用され、鍛錬の場を失いました。

「もうここではウエイトリフティングを指導することはできなんじゃないかなっていう気持ちにもなりましたし」

それでも、子ども達の夢をあきらめない・・・。
高校の屋内施設、その一画を間借りして、トレーニング。
さらに県外の高校へ出向いてトレーニング。
元の場所で、練習を再開したのは、地震から2カ月後のことです。

「子供たちが望んでいる結果を出させなければいけない、というか出させてやりたいっていうか、そんな思いでずっと奔走してきた」

夏のインターハイ、被災地から戦う彼らは団体で準優勝を果たしました。

「全て終わってみれば、本当に無事に全部乗り越えることができて(良かった)と思っていますけど、でも1月2月なんてのは生き地獄だなって思ったのが正直なところでした」
「これもどうしたらいいか分かんない。壁もあんなに(変色し始めるように)なっているし、ここも割れてるし・・・そろそろカビも生えてきているんじゃないかな。屋根を直さないと、どうしようもないけど、業者さんがなかなか来てもらえない」

子どもがいない浅田さんは、夫とその両親との4人暮らし。
実は自身も、能登半島地震の被災者の一人です。
あの日は釜石市に帰省していましたが、珠洲市の自宅は一部損壊。
屋根瓦がはがれる被害を受けました。

「やっぱり修理代はかかるんですね。だからそういう部分が貯えのある方はいいんですけど、なかなかちょっと・・・うん十万(円)の世界じゃないと思うんですね。そんなことを考えたり」

浅田さんが業者に屋根の修理を依頼したのは8月ごろ。
しかし、今も着工には至っていません。
市内外の建設業者が公費解体や被災した家屋の修繕にあたっていますが、能登半島全域にわたる被災地域の広さに、マンパワーが不足しているのです。

「ソファーの上に一年ずっと寝てきてて」
「でもそうやってでもここには住めるのでね。そう思うことにしてます」

そう自分に言い聞かせながら、彼女が思いを寄せるのは、辛い経験をした教え子たち。

「祖母が初詣に行っていて、近所の人の家に寄った時に地震が来て亡くなってしまったんですけど」
(中島選手)
「今年はオリンピック出れなかったので、2028年はオリンピック出るという気持ちでこれからやっていきたいと思います」


苦境にあってもなお、前へ歩もうとする子供たち。浅田さんの心はいつも彼らとともにあります。

「(見捨てて出ていくことはできない?)そんなことは絶対出来ない、それだけはできない。出てけって言われても出ていかない。子ども達がいる以上は」「珠洲と我々をつなぎとめるものは、ウエイトリフティング、子ども達のウエイトリフティング」
二つの大災害を経験した浅田さん。苦難を乗り越え目指す先はー。

「やっぱりオリンピックっていうのは外せないフレーズでもあるので、いつか必ずそれを実現してくれる選手を育てていきたい」

能登半島地震から、まもなく1年。
復旧復興はまだまだ道半ば、浅田さんと子ども達の夢の道のりも、まだ半ばです。
2025年、被災地の、2年目の戦いが、始まります。〆