日中国交正常化の舞台裏 岡崎嘉平太が伝えたメッセージ
1972年9月29日、
日中共同声明に調印する田中角栄総理大臣と中国の周恩来首相。
歴史的なこの場に、小長啓一さんは総理秘書官として、立ち会っていました。
(小長啓一さん)
「あの時そばにいまして、田中さんでなかったら決断できなかったなと。『お国のためにはやるべきだ』と踏み切られたわけですよね。その決断力というのは、素晴らしい」
田中角栄が訪中を決意した背景に、岡山県出身の岡崎嘉平太がいました。生前、RSK山陽放送の取材に対し、こう語っていました。
(岡崎嘉平太さん)
「日本と中国というものが、離れておってもいいとか、あるいは相互に敵視状態にあっていいということは考えられないでしょう」
岡崎嘉平太は、1897年、現在の吉備中央町に生まれました。留学生との交流をきっかけに中国に深い関心を寄せ、戦後は、国交の早期回復を願いながら貿易を通じて交流を続けました。
その交流が、約50年前の「日中国交正常化」に道筋をつけることになりました。
小長啓一さんは、岡崎嘉平太が田中角栄に、中国側のメッセージを伝えた場に同席していました。
(小長啓一さん)
「(中国側は)田中さんのメンツを損なうようなことはしないと、このことを(田中総理に)伝えてくれということを岡崎さんに託された訳でありまして、田中さんは行こうか行くまいかずいぶん迷っておられたのですが、岡崎さんのメッセージと、これはもう間違いないということで、最後に行こうと決断されたわけでありまして」
中国を訪問した岡崎は、周恩来首相から感謝の言葉も受け取っていました。
(小長啓一さん)
「中国のことわざに、水を飲むにあたっては、水の出どころである井戸を掘った人のことは忘れないという言葉がある。あなたに捧げます、と周恩来さんが岡崎嘉平太さんにその言葉を言われたわけですね」
「(岡崎さんは)非常に穏やかな方ですね。それこそ人格高潔、人に対しては優しく、という『微風和暖』という言葉がありますけれど、それを地で行く方だった」