在日コリアンの関連施設を狙った連続放火事件。その判決が言い渡されました。差別感情や憎悪を募らせて至った犯行。ヘイトクライムをどう乗り越えるのか?標的となった京都・ウトロ地区が歩んできた歴史を取材しました。

日下部正樹キャスター(8月30日)
「京都地方裁判所前です。まもなく下される判決を聞こうと、これだけ多くの市民がですね、傍聴券を求めて集まってきています」

この日判決が言い渡されるのは、1年前に起きた連続放火事件。22歳の男が火をつけた名古屋や京都の現場は、全て在日コリアンの関連施設だった。

差別感情に基づく犯行=ヘイトクライムがなぜ起きたのか。男とのやり取りからは、衝撃的な動機が浮き彫りになった。

■「何が怖かったか、もう放火が一番」“ヘイトクライム”との闘い

火災現場の一つ、京都府・宇治市にある「ウトロ地区」。在日コリアンが多く暮らしている。当初は空き家からの漏電による出火とみられていたが、放火だったのだ。

逮捕後、現場を訪ねた。

日下部キャスター
「放火事件から半年以上か。焼け焦げた柱がそのままの状態で残っています」

焼けた家屋は全部で7軒。なかには、小学生2人の子供がいる家族が暮らす家もあった。幸いけが人は出ていない。

ウトロに住んで70年になる鄭佑炅(てい・ゆうけい)さん(80)。自宅は、放火現場の目の前だ。在日2世 鄭佑炅さん
「ぱっと戸を開けたときに煙がぐわっ〜て黒い煙がでて、炎がばーって。あぁ〜っと思って。ここで生活してきて何が怖かったか、もう放火が一番。今でも何か表でカチカチ鳴ったら、のぞきに行くもん、なんやろと思って」

ウトロ地区に住む60世帯100人の住民のうち、9割が朝鮮半島にルーツを持つ。集落ができたのは、先の大戦の最中だ。

当時そこでは、国が飛行場建設を進めていた。この建設のために多くの朝鮮人労働者が集められ簡易の宿舎が置かれたのがウトロだった。

終戦と同時に彼らは仕事を失い、なんの補償も得られないままこの地に取り残され、助け合いながら生き抜いてきた。

在日2世 鄭佑炅さん
「水道も何もない、トイレもない。トイレはもう共同。ちょっと離れたところに、ポツンと建ってて。その当時は家といったらウトロ部落しかなかった。その角角に豚を飼うて」

ーー豚はどうするんですか?食べる?

「やっぱり大きくさせて売り飛ばして。臭いはたまらんかった。ここに住んでる人間自体も通ると」

元教師だった父親は朝鮮の人たちの生活を支援するため奔走した。亡くなるまで日本語がほとんど話せなかった母親の苦労も見てきた。

「あちこちの仕事、なかったらもう日雇いみたいな感じで、もう鉄拾いもいったしね」

ーー帰りたいって言ってなかった?

「そんなことは口に出さなかった。ここで生活するのが精一杯やったんちゃう。帰る金もなかったと思う」

鄭さんは、通学の電車賃が払えなくなり、高校を中退した。仕事を探すも朝鮮人であることを理由に何度も採用を断られた。

「向こうの社長さんがな。戸籍謄本持ってこいと。お前使うからと。そのとき初めて朝鮮人やって言うて。言うたら、もう来んでもええわと」

ーーもう帰っていいって言われたときはどう思いました?

「諦めて帰って何も思わへんかった。もうそういうあれやな。時期が時期だけにそういう感じや」