生存した乗組員たちの体験を国鉄がまとめた「台風との斗い(たたかい)」。
台風の翌年に約500部作られ、遺族などに渡されました。2011年に本を復刻させた高橋さんです。

語り継ぐ青函連絡船の会 高橋摂事務局長
「お父さん、叔父さんはこんなふうに台風と戦った。船を沈めないように頑張った記録として残しておくという趣旨」
当時、気象台は台風は時速110キロで北東に進行、午後5時頃には渡島半島を横切ると予報します。
そして、予報を裏付けるように港には夕日が…。
「台風の目に入った」誰しもがそう思い、洞爺丸も出航します。
しかし、出航直後に天候が悪化、実際の台風は渡島半島の手前で速度を落とし、洞爺丸を直撃したのです。
洞爺丸は港の外に錨をおろし、天候の回復を待ちますが波に押され、たまたま海中にできた砂山に座礁。
「台風との斗い」では、こう記録されています。
『「事務長へ伝令。本船は七重浜沖に座礁した。これ以上動揺もないと思われるから、救助船のくるまで心配しないで待つよう」旅客に伝えるように』
安堵したのも束の間、座礁から19分後には…。
当時のHBCラジオニュースの音声(1954年)
「洞爺丸がその痛々しい大きな赤い船腹を見せております」
海難審判では船長の天候判断を巡り責任が追及されましたが、それでは教訓にならないと高橋さんは指摘します。
語り継ぐ青函連絡船の会 高橋摂事務局長
「船長だけを追及して思考が停止し、終わってしまうのはよろしくない。教訓とするためには、ミスが起きないようにミスを犯しても助かるように考えていく」
そして、洞爺丸台風は次の標的を定めるかのように、北へ進んでいきます。