今月27日、学童疎開船・対馬丸の慰霊祭が鹿児島県の奄美大島で開かれました。
九

州へと疎開するため長崎に向かった対馬丸。1944年8月22日、アメリカ軍の攻撃を受け鹿児島県悪石島沖で沈没。乗船者の多くが海に投げ出されました。
対馬丸の沈没から数日後、奄美大島宇検村の海岸一帯には凄惨な光景が広がっていました。
奄美大島、宇検村に住む大島安徳さん95才。当時を知る、唯一の語り部です。
Q当時のことを覚えていますか?
大島安徳さん(95)
「対馬丸がやられてそして、枝手久海峡。その間から人の肉体が流れてきたんですよ。その肉体がね。宇検の湾とは非常に波静かなところで、肉の海でしたあんな光景というのはもう二度とみられません」
台風の影響もあり、対馬丸が撃沈した悪石島から130キロあまり離れた宇検村には21人の生存者と105人の遺体が流れ着いたといいます。大島さんは、生存者の救助と遺体の埋葬にあたりました。
大島安徳さん(95)
「サメにやられたんでしょう。それがねウジが湧いて、流れ着いた肉体がやられたんでしょう、その肉体にウジがついてね、あーもう僕はいまでもそれは思い出すとゾットしますよ」
大島さんは岸辺に50体ほどの遺体を埋めました。
大島安徳さん(95)
家にある30度の密造酒があった、それを飲んで気を紛らわせないと到底到底…、密造酒を飲んでやりましたよ。なんというかな色々あった」
しかし、大島さんたちが奔走してまもなく、住民の前に軍刀を持った日本兵が現れたといいます。

大島安徳さん(95)
「憲兵がやってきて、これを、この赤い腕章着けている憲兵が、対馬丸のアレを他言してはいけないと『朕が命・天皇の命だと思え』って、それを守らんといけんから。だから辛かった本当につらかった。かん口令を敷かれてそのまま話さなかった。約束だから。」
天皇の名の下、戦意の喪失を危惧してひかれたかん口令。日本軍は、村の人が止める中まだ衰弱している生存者たちを連れて行ったといいます。
平良啓子さん
「クバ扇で風を送ってきてくれたり、ゆで卵を持ってきてくれたりとか沢山の見物人が私達を見舞いに来てくれた」
対馬丸に乗船し、6日間の漂流の末、宇検村の住民に救助された平良啓子さん。診療所で手当てを受けますが…
対馬丸の生存者 平良啓子さん
「日本の軍艦が村に入ってきて大きい声で『ここに遭難者はいないか』と言って『おりますよ』と言ったら『出てこい』と言われてそれで出されたわけ。医師はこの体力ではあと2,3日収容したいのに『今出て来い』って困ったなと言っていた」
生存者はすぐに旅館に集められ、軍による監視が続いたといいます。奄美大島に流れ着いた人たちの救助にあたった大島さん。自らの経験を後世に伝えていくため、詳細な手記を残しています。
大島安徳さん(95)
「二度とこういうことは起こしてはいけないって、これがこの陳述書になったんですよ」
対馬丸の記憶の継承をに尽力した大島さん。6年前、念願だった慰霊碑が、宇検村の船越海岸に立てられました。

大島安徳さん(95)
「慰霊碑を抱いて、わんわん泣きましたよ。わたしの一生の夢でしたから慰霊碑を立てるのは」
慰霊碑には犠牲者を弔う大島さんの詩が刻まれています。
「対馬丸 受難のみ魂らとこしえに 祭りつたえむ 船越の浜」
今年で6回目となる慰霊祭。大島さんの思いが少しずつ、対馬丸を知らない世代に受け継がれています。
福山芽衣さん(中学1年)
「大人の人も事実を全部知ってる人は少ないと聞いて私達の年齢からいろいろな人たちにも話していければいいなと思った」
鹿児島県宇検村 植田稔副村長
「後世に伝えていくことの大切さ子どもたちが平和であることの尊さを分かっていただければと思います」
大島安徳さん(95)
「(世界で)戦争しているでしょ、世の中のこの平和と戦争の残虐性ね、惨さ。平和の尊さというのを本当に思いますね」
対馬丸の悲劇に向き合った自らの責務として、語り部を続けてきた大島さん。奄美に残る対馬丸の記憶が私達に問いかけています。