―――2016年11月。84歳の稲盛和夫さんは、「人生最後となった密着取材」で記者にこう話した。故郷・鹿児島でのワンシーンだ。 (稲盛和夫氏) 「市街地から海を隔てて、こんな雄大な島があるというのは世界中どこにもありませんから、生まれ故郷は自慢です」
 請われればどこにでも出向いて、常に人を和ませ、茶目っ気たっぷりだ。27歳の時、京都で立ち上げた小さな会社は「京セラ」と社名を変え巨大企業となった。礎となったのはアナログテレビのブラウン管に欠かせなかったセラミックの絶縁部品「U字ケルシマ」だ。材質の特性上、量産化は難しかったが、粘り強く研究を続けて量産化に成功。

創業時にグサッと“血判状”

 高井美紀キャスター
 Q 会社を創業された時には 皆さんで血判状まで作られたということなんですが?

 「ある者は お金もなければ、技術も何にもないわけですから、ただ、人の心だけが頼りだと。人の心というのは 移ろいやすく頼りないのも心なら、一度信じ合った仲間の心というのはこれほど強いものもないと私は信じていましたので、示すためにみんなで血判をしようと」

  Q その日のことは やっぱり覚えてらっしゃいます?

 「もちろんです。どうやって血判というのをすればいいのか分からなくて、かみそりを持ってきて、どう切るんだろうと思い、グサッと深く切り過ぎて、痛かったことを覚えています。」
 1932年、鹿児島市で小さな印刷業を営む両親の間に生まれた。7人きょうだいの次男、甘えん坊だった。10代の頃に結核を患い、死を覚悟した経験から大学の医学部を志した。だが願いはかなわなかった。地元の大学の工学部で学び、就職した会社は倒産寸前。だがそれが転機となり、1959年、京セラの前身・京都セラミックは誕生した。

 成長を支えたのは、稲盛さんの経営哲学「京セラフィロソフィ」だ。仕事や人生のあり方を説く冒頭には、心の大切さが書かれている。稲盛さんの執務室には、尊敬する西郷隆盛の書がある。

 「『敬天愛人』です、西郷南州の。今でも何か書かされると私は必ず書いているんです。天を敬うということですね。」

 稲盛さんの経営哲学を学ぶ勉強会「盛和塾」。世界大会では、5000人の経営者が各国から集い、彼の一言一句に 耳をそばだてた。中でも 中国での人気はすさまじく、盛和塾が30か所にできている。稲盛さんとともに中国・瀋陽へ向かった。