母を失った息子が米兵処刑を志願
1945年6月19日の福岡大空襲。アメリカ軍のB29による爆撃で犠牲になったのは1000人以上。堅太郎さんの母、ウタさんもその一人でした。

裁判資料(福岡大空襲の状況)より
「冬至氏は『お母さん』と一言軽く声をかけられ、右膝をついて男泣きに泣きくずれました」
翌日、西部軍司令部の大工小屋で、母の棺を作っていた堅太郎さんは、B29に搭乗していたアメリカ兵の処刑に加わります。

冬至堅太郎さんが書いた裁判資料より
「私は処刑者として最もふさわしい者だ」
自ら志願した堅太郎さんは、刀を借り、アメリカ兵ひとりの首を斬り、さらに命令によって3人の命を奪いました。
戦犯としてスガモプリズンに
敗戦の翌年、堅太郎さんは戦犯としてスガモプリズンに囚われます。
堅太郎さんは入所したその日から日記を書いています。

冬至堅太郎さんの日記
(1948年)12月22日 水 晴 ゼーラー(看守)の友情
「私たちのいる六号棟に来る10数名のゼーラー(看守)の中で、特に私の親しい一人がいる。『四人処刑したときはどんな気持ちだったか?』『志願するまでは本当に怒っていたが、処刑の位置についた時にはただ立派に処刑を遂行することより他は考える余地がなかった。あとで私の妻にこの処刑のことを話したら、妻は<その飛行士たちには奥さんや子供があったでしょう>と言った。僕は言葉がなかった。」