鹿児島大空襲 山形屋も建物の形だけを残し全焼

国から戦争への協力を求められ、1944年=昭和19年には4階が魚雷の舵を作る工場となりました。

山形屋で作っていた魚雷部品の図面


翌1945年=昭和20年6月の鹿児島大空襲では、市内でおよそ2300人が死亡し、市街地の4割が焼失。山形屋も建物の形だけを残し全焼しました。



この3年後の1948年に山形屋に入社した鵜木信也さん。大空襲の様子を先輩社員から聞いていました。

(鵜木信也さん・取材時90歳)「空襲では、店のシャッターの所に近所のおじさん、おばさんたちが避難して、先輩が“地下室に入りなさい”と言って案内して入れたと聞いた。私ならどうするだろうか…と思った。」