旅館が軒をつらねる湯田川地区に当時を知る人がいます。

農業を営む五十嵐吉右エ門さんです。

五十嵐さんら地元の子どもたちも疎開してきた児童とともに勤労奉仕を行いました。農業用水のため池を作ったといいます。
五十嵐吉右エ門さん「100メートルくらいの山を切り崩して赤土を背負わされてダムの防波堤の堰堤を作った。スコップで3つか4つくらい入れて1回運ぶと券をもらった。判子を押した券」

勤労奉仕に報酬はありませんでしたが、クズ米など、食事があることが、魅力でした。
五十嵐吉右エ門さん「沢水をおっきな鍋に味噌をもっていって3つずつ食べさせた。それが美味しかった」
「(Qいくとごはんが食べられるからやる)それも魅力があったんでしょう」
「握り飯に塩つけた、何もないんですそれがおいしい」

300人程度の地元の児童に対して疎開児童はおよそ800人にものぼりました。
五十嵐吉右エ門さん「喧嘩なんてしなかった。かわいそうで。大事にしなければならない。親元から離れてきて。私たちは毎日親元で生活してるのに」
終戦の後、江戸川区に戻る時、引率の先生は湯田川地区に感謝を込めてこんな曲を残しています。
