伝統芸能と五輪、そして戦争

 上津島の三匹獅子舞の由来は、はっきりしていない。
 津島郷土芸術保存会が、2000年に残した報告書では「明らかではないが次のようではないかと言われています」と断った上で、次のように書いている。

「将軍徳川家康(おくりなを東照大権現という)の死後、各地の主な各藩に家康公の遺品(遺髪など)を配り、権現壇や権現堂なるものを作らせ崇拝させ、徳川家の権力を永く見せつけたといわれており、さらには、主君の功績にあやかり、家の鎮守の氏神様として祀った武士たちも多くあったといわれております。
 ある時、流行り病が広がり多くの子どもや大人達がいなくなり、悪霊払いのために東照大権現に使える獅子舞を踊り奉納したところそれが治まったという伝説があります。伝承経路としては岩代方面からと思われます」

 岩代は現在の二本松市の一部となっている地区である。富士山が見える北限とされる日山(天王山)で津島と隣接している。津島のほかにも葛尾村、田村市、川内村といった、阿武隈高地の集落に残されていて、かつて山間の集落にあった交流と豊かな精神性を感じ取ることができる。
 400年に渡る歴史の中で、危機がなかったわけではない。
 上津島には1926(昭和元)年からの記録が残されている。その中で確認できる最初の危機は、戦争であった。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、国家総動員法が制定された1938年ごろから、終戦まで獅子舞は中断している。五穀豊穣を祈る山間の小さな祭りでさえ、「娯楽」と見なされ自粛を余儀なくされた。
 戦後、獅子舞は復活をみるが、意外な危機に見舞われる。
 1960年から8年間、獅子舞が奉納された記録がない。記録には「奉納されなかったのだろう」とした上で、次のように書いている。

「原因として、所得倍増をかかげた高度経済の成長期で、建設ラッシュが始まり、一九六四年には東京オリンピックの開催もあり、冬期間や農繁期の前後に出稼ぎする者が増え始め、それらに携わる若者がいなかったり、さらに、テレビが普及し始めた頃でもあり、中止された一つの要因かと思われます」

 昭和の時代、小さな部落の伝統芸能を中断させた大きな要因が、戦争と五輪だった。いずれも祭りの担い手が奪われたためである。
 翌年に2020年の東京五輪を控えている頃であった。開会式に先立って福島での競技も予定されていた。「復興五輪」の名の下に誘致されたこの祭典が、津島にもたらすものはおそらく皆無である。時代を超えて、東北の小村につきまとう五輪の影を、感じないわけにいかない。
 原発事故の直前には少子化にも悩まされた。上津島の男子と決められてきたが、例外も設けなくてはならないときもあった。住民だけではどうすることもできない、国家や社会情勢がもたらす危機に何度も直面しながら連綿と続いてきた営みだが、今回ばかりは先が見えない。今野家がある地区は、特定復興再生拠点に指定され、2023年に避難指示が解除される見通しである。しかし、そこにどれほどの人が戻るのかもわからない。

かつての三匹獅子舞

「全然違う地域になるんじゃないんですか。俺の知っている津島ではない。そこにどれほどの人が戻るかもわからないし、俺だってわからない」

 淡々と今野正悦は話した。「わからない」と言ったのには理由がある。今野はすでに重大な決断をしていた。特定復興再生拠点に指定されたことを受け、伝統芸能の拠点だったこの築300年の家を取り壊すことを決めていたのである。

「取り壊しは5月中旬以降。ここはギリギリ拠点に入っちゃったんだな」

後編へ続く)