2011年3月11日、東日本大震災の津波の浸水を免れた避難所のすぐそばにありながら、大勢の犠牲者を生んだ施設がありました。なぜ避難が遅れてしまったのでしょうか。
避難所が近くにある施設で、なぜ大勢の犠牲者が
震災当日の宮城県南三陸町。志津川の町は津波に襲われました。

ついには海から1キロあまり離れたこの建物も。この建物は、特別養護老人ホーム「慈恵園」。

当時、68人の高齢者が滞在していました。慈恵園の裏山には、浸水を免れた避難所、志津川高校がありました。その距離、わずか200m。

しかし、慈恵園では高齢者と職員あわせて49人が犠牲になりました。地震発生から津波に襲われるまで、およそ50分。なぜ、多数の逃げ遅れが出てしまったのでしょうか。

あの日、慈恵園で介護主任だった星雅也さん。今は、再建を果たした慈恵園で施設長を務めています。

慈恵園 施設長 星雅也さん:
「ここが慈恵園」
かつての慈恵園があった場所は今では更地になっています。

星雅也さん:
「防災無線で(津波は)10mぐらいということでしたので、であればまだ大丈夫かなって」

標高およそ15mの高台にあった慈恵園。寒さがしのげる建物の中で、待機するという判断になりました。しかし「避難しない」と決めた理由は、これだけではありませんでした。