ハンセン病はどんな病気? 戦国大名にみる病の特徴

(山本典良園長)
「1930年に長島愛生園が創立されて、日本で初めての、国立では日本で初めてですね。その前に5都道府県立の療養所があったのですけど、国立は初めての療養所が、長島愛生園でした。

光田健輔という初代園長が、東京の全生病院(現在の国立ハンセン病療養所 多磨全生園)から来たのですけど、彼が強引に強制隔離を進め、断種堕胎を推奨した人ですね。彼が初代で私が8代目の園長になります。

皆さんにハンセン病どんな病気だったかっていうことを、ちょっとお話ししようと思うのですけど、大谷吉継という戦国大名がいたのです。大谷吉継はハンセン病だったと言われています。

1587年、大阪城の茶会で、おそらく豊臣秀吉が主宰して茶会が開かれた。その時にすでに、大谷吉継はハンセン病に罹っていたのですが、茶の湯の回し飲みがありました。

大谷吉継の顔から膿が垂れて茶碗に入ります。それを、次の戦国武将は、あんまり気持ちのいいものじゃないんで飲んだふりをするのですね。2、3人後に石田三成がこれを全て飲み干したということです。

茶の回し飲みなので、これを飲み干すことは作法に反するのですけど、石田三成は飲み干して「美味しいので全部飲んでしまった。新しくお代わりが欲しい」と言ったそうです。

石田三成の行為は、大谷吉継に恥をかかせなかった。石田三成の後に飲む人も飲んだふりをしなくて良かったということで、大谷吉継は、石田三成に恩を覚えて1600年の関ヶ原の合戦で、両者とも討ち死にしたということです。

この話の何に注目するかというと、1587年に大阪城の茶会です。1587年に顔から膿が出る状態だったのですね。その大谷吉継は、1600年に合戦に行けるのです。13年間顔から膿が出ていた状態で生きていけるのです。

これが、もし結核だったらもう1587年の時点でもう床に伏して動けないはずです。ところが、(ハンセン病は)13年後に合戦に行ける気力があったということですね。ただ輿に乗って、多分、末梢神経障害で歩けなかっただろうと思うのですけどね。これがハンセン病なのですね」