今年は戦後80年…イブニングニュースでは、語ることのできる人が少なくなっている戦争証言をお伝えしています。

きょうは敵艦への体当たり攻撃、「特攻」に使用された戦闘機=零戦の整備兵を務めた104歳の証言です。

(多田野弘さん)
「10月の25日、昭和19年の。神風特攻隊を日本で初めて飛ばしたところが、うちの部隊だったんです」

【画像①】

太平洋戦争で日本海軍の主力だった零式(れいしき)艦上戦闘機=通称、零戦(ゼロせん)【画像②】。開戦当初は機動力の高さで連合国軍を圧倒しました。

【画像②】

しかし次第に性能は劣るようになり、戦争の末期には爆弾を搭載して敵艦に体当たりする「特攻作戦」に使われました。

戦地でこの零戦の整備にあたっていた男性が、高松市にいます。多田野弘さん、104歳です。

(多田野弘さん)
「飛行機を準備して飛ばしてやるのが、私たちの仕事でした」

常に死と隣り合わせ

【画像③】

1920年に高松市で生まれた多田野さん。大阪市の工業学校を卒業後、航空整備科の予備練習生として横須賀の海軍航空隊に入隊しました。1941年、太平洋戦争が始まり、21歳で戦地に赴きます。

(多田野弘さん)
「出て行ったらもう戻って来られないかもしれないと。死ぬことを覚悟しなくちゃいかん」

第201海軍航空隊の一等整備兵としてラバウルやサイパンなど南太平洋の最前線に立った多田野さん。連合国軍との戦いで傷ついた、零戦の整備に明け暮れる日々でした【画像④】。

【画像④】

爆発戦況の悪化につれ失われていく零戦と、仲間たち。整備の仕事も、常に死と隣り合わせだったといいます。

(多田野弘さん)
「戦闘機と爆撃機を合わせて100機を超える、敵の空襲が毎日ありました。毎晩、今日は大丈夫だったけど明日はひょっとしたら自分の番かもしれんぞと」