戦争防止の力となるように

除幕式当日の愛の像(1955年11月11日)

<冬至堅太郎の日記 1951年12月2日>
午後、戦犯史編纂委員の第一回会合、十四名
根本方針について山田氏が「戦犯の実態を示して世の誤解を解く」と云う目的を示されたが、私はこれに反対した。我々自身の釈明を目的としては自己弁護に堕して却って世のそしりを受けるだろう。それよりも戦犯の実態を善悪ともにさらけ出し、それを通じて人間の本性、戦争の本質まで表明し、そして戦争防止、平和建設の一つの力となることを目的とすべきだーと私は云った。幸にして大多数の賛成を得てこの大乗的目的によって今後此の事業をすすめることになった。


自己釈明をもとに書いたものは、その意図が透けて見えれば、世間には受け入れられない。むしろ批判されるであろうと指摘している冬至の考えは、ほかの委員たちにも受け入れられた。これに続く「世紀の遺書」の編纂作業も同じように進められた。「世紀の遺書」の編集後記には、「編纂の方針として何等特定の色彩方向をもたず、どこまでも個々の意志に忠実を旨とした」とある。遺族から借りた遺書を一枚一枚丁寧に写し取るのは、時間と手間がかかり、委員以外のスガモプリズン在所者の手も借りた。数万枚の資料を集めて整理し、原稿用紙約2800枚にまとめるには1年余りを費やした。冬至は「世紀の遺書」の編纂作業に入って約1か月後、スガモプリズン入所以来6年に渡って続けてきた日記を「遺書編纂多忙につき日記以後つけず」と終わらせた。日記をつける暇もないほど、作業が立て込んでいたことが分かる。