絵にかけなかった父の顔を70年ぶりに見た

若き日の父の顔を思い出せなかった佳代子さんに、日大の高澤准教授から写真が届いた。アメリカの国立公文書館にあった、重労働15年の判決を受けた時の写真だ。保田少佐は、そのとき31歳だった。写真のキャプションによると、日付は1948年5月19日。東海軍の事件で処刑された38人のうち、27人の殺害に関与したという理由だった。

軍人として士官学校の時代から飛び抜けて優秀だった父は、陸軍大学校卒業前に母と結婚した。戦中、軍事国家のエリート層にいた保田少佐。法務省が1962年に行った戦犯関係の聞き取り調査に応じていた。

上官たちに人間の闇を見て「自殺も考えた」

法務省の面接調書(1962年)「終戦直後の状態は精神的にもショックを受けた。階級の上の人に対しては不満で、階級の下の人は終始変わらず立派なものだと感じた。これが巣鴨生活を一貫して感じたことであった」「中央部は卑怯であった。無差別爆撃の敵機搭乗員を現地で処刑せよという電報は出さなかったと証言している。新聞にも出た事実なるにかかわらずこれを否定している」

上官たちの人間性に闇をみて、保田自身、自殺を考えたこともあった。

個展に現れた父「平和がいちばん」

「戦後50年」の年に個展を開いた佳代子さんの元に、父は突然現れた。スガモプリズンを出た後は、名古屋で暮らしていたという。その後、亡くなるまで10年間は手紙のやり取りがあった。

村田佳代子さん「米寿まで生きたから幸せだけどね。最後。だけど、私達の前から姿を消した時は、まだ30ちょっとだものね。50年の空白があるのよ」

再会を果たした父は、こう言って帰って行った。

村田佳代子さん「最後つぶやくように、『平和がいちばん』って言って。私の目を見て」