広島県出身のミュージシャン吉川晃司さん。10代から活躍し、8月に還暦を迎える吉川さんが今大事にしているのは、故郷広島に恩返ししたいという思いです。その広島は原爆投下から80年という節目の夏を迎えています。東京で開催中の原爆記録写真展の会場を訪れた被爆2世でもある吉川さんに、平和への思いを聞きました。

「ここに父の実家の旅館があったんです」

被爆80年企画展「ヒロシマ1945」の会場にやってきた吉川さんは、その入口にある被爆後のパノラマ写真を指差しました。その場所は、原爆ドームから川を挟んで真向かい。現在は平和公園となっている中島地区の一角です。

「若い頃は、実家が原爆ドーム前にあるなんて知らなかったんです。父に、『戦前は広島の一番の繁華街だったんだぞ』とも言われ驚きました」

原爆投下当時は疎開していた父親は、原爆投下後に爆心地周辺に入った入市被爆者で、吉川さんは被爆2世となります。小学生時代に、ボーイスカウトとして広島市の平和記念式典に関わった経験があるそうですが、若い頃は、特別な深い思いや考えを持っていたわけではないと振り返ります。

では、平和への思いを強くしたきっかけは何だったのでしょうか-。吉川さんは、父親が被爆当時のことを語り始めたことに加えて、東日本大震災の津波被害の映像を見た母親がもらしたひと言もそのひとつだと話しました。

「母は東京大空襲を経験しているんですが、『あの時と同じ景色だ』と言ったんです。戦争と災害は違いますが、多くの人々が傷ついたという意味でそれがつながり、ちっぽけな自分ができることは何なのかとものすごく考えました」

東日本大震災の時は、宮城県石巻市でボランティア活動にも加わりましたが-。

「『どうして君は発信する手段を持っているのに、ここにいるのか』と言う人が少なからずいました。『もっと違う使い方ができるでしょう。君の力を』と。それを聞いて自問自答しました。『言葉にする、文字にする、詩に書いてみる。お前はまだできることがいっぱいあるんじゃないの』って。何か力になるきっかけがあるんだったら、『よし、出て行こう』と思いましたね」

吉川さんは、同じく広島県出身で同い年の奥田民生さんと、ユニット「Ooochie Koochie(オーチーコーチー)」を結成しました。お互いの還暦にあわせて故郷に恩返ししようと意気投合したものです。今年アルバムを発表して、全国ツアーを続けています。そのアルバムに「リトルボーイズ」という曲があります。リトルボーイとは、広島に投下された原子爆弾のコードネームです。奥田さんが作った曲に、吉川さんが歌詞を書き歌っています。そこには、アメリカ側と日本側双方の母親目線の歌詞が含まれています。

「原爆のきのこ雲の上にも下にも母親から見送られた子どもたちがいたんですよ。全ての母親が全ての子どもに対して『生きて帰ってきてくれよ』と思ったに違いないわけで」

このメッセージ性を含む曲は、テンポの良いロック調となっています。そこには、”ミュージシャン吉川晃司”としてのこだわりがありました。あくまで自身の経験上と前置きして、こう話します。

「直接的に言えば言うほど伝わらなくなることもあると思うんですよ。曲もあまり重々しくなく、歌い上げないほうが受け止めてもらいやすいと。その方法を模索するのが、エンターテイナーとしての仕事かなと思いますね」

被爆80年企画展「ヒロシマ1945」は、原爆が投下された1945年8月6日から12月末までに、市民や新聞カメラマン、映画社のスタッフなどが撮影した写真や映像164点が展示されています。吉川さんは、時折ため息をもらしながら、当時の惨状を示す展示を見てまわりました。

「子どもの頃に見て覚えている写真もありましたが、大人になってから見た方が強烈ですね。『これ人間がやってるんだよな』とか、『なんで戦争が終わらないんだろうか』とかね。結局大人の都合の権力の奪い合いで市民が犠牲になる。繰り返されてはいけないと思いますね」

核兵器をめぐる国内の意見の相違や、日本周辺の安全保障環境を踏まえ、国民全体で議論していくことが重要だと繰り返した吉川さんは、最後にこう訴えました。

「あんなモンスターに多くの人々が一度にして命を奪われるなんてことはもう絶対あってはならないと思います。将来は、核兵器は地球上から全て廃棄することが望ましいです」

被爆80年企画展「ヒロシマ1945」は、東京・恵比寿の東京都写真美術館で8月17日(日)まで開催されています。