長崎市の沖合に浮かぶ端島(軍艦島)で育ち、12歳の時に長崎被爆を体験した加地英夫さん。被爆者として、また世界文化遺産の端島で生きた証言者として、その経験を語り継いできた加地さんが11月、92歳で亡くなりました。今年6月に加地さんが語った端島での暮らしと1945年8月9日の記憶です。
端島(軍艦島)での少年時代

長崎市の沖合にある小さな海底炭坑の島「端島」。世界文化遺産にも登録され「軍艦島」とも呼ばれるその島で加地さんは生まれました。
一時は日本一の人口密度を誇るほど栄えた端島。加地さんは、長崎市の本土に遊びに行き自然と触れ合うことが何より楽しかったといいます。

加地英夫さん:
「春と秋にある遠足にみんなと一緒に行くのが本当に楽しみだったんです。行先は『戸町水源地』と決まってるんですけどね。春は桜の花が見られるし、オタマジャクシがこれがカエルになるんだよって聞いてびっくりしたり笑。島育ちだから海のことは分かるんですけど、山があって川が流れて生き物があふれて、そんな光景がまぶしかったです」
車の排気ガスにびっくり…何この臭い!
「車が通ると、その排気のガソリン臭に興味津々なんです。端島では嗅いだことない匂いですからね。『自動車が来たぞ!』ってみんなで追いかけて行ってにおいを嗅ぐんです。先生から『こらっ!』て怒られるんですけどね。今考えれば馬鹿なことと思うけど珍しくて面白くてですね」
8人兄弟の6番目として生まれた加地さん。大学への進学を目指して長崎市の旧制県立瓊浦中学校を受験しました。
「上級学校に行きたいなと思って母に話したんです。頑張って大学にも行こうと思って。友達と2人で合格発表を見に行って、『お~入っとる、入っとる!お前も入っとるやんか!』と大喜び!浮かれて2人で遊んだもんだから船に乗り遅れてね」
見事試験に合格した加地さんは端島を離れ長崎市本土へ。稲佐にあったおばの家に寝泊まりし、7月には大浦に引っ越して下宿生活を始めました。