凄惨な姿、救いを求める人々

加地さんはなんとか近くの防空壕にたどり着きます。自身に大きなケガはありませんでした。でも防空壕に入ってくる人たちは全身血だらけ。皮膚は垂れさがり腹が飛び出ている。見たことのない人間の形相。

「『入れてください』『助けてください』って言ってからですね。後から入ってくる人は真っ赤な血をダラダラ流して走ってくるんです。来る人みんなもう…手がですね…手とか腹が飛び出してべらんとなってるんです。自分の皮膚がぶらんとした人たちが…『助けてください』って」

「何があった?何をした?…原爆とはわからないからですね。爆弾が落とされて直接当たったんだろうかと思うぐらいです。怪我して血がだらだら流れてる人たちが、もうどんどん…どんどん…」

防空壕を出て大浦にいる親戚のおばの所へ。途中にある県庁はごうごうと燃えていました。おばに「よかったねあんた!助かったね!」と言われたのが午後4時くらいだったと記憶しています。

燃える浦上

8月9日の夜、加地さんはおばと一緒に近所の学校のそばにあった防空壕で過ごしました。

「その日の晩はぐったりしてですね、一度だけ息苦しくなって空気を吸いに上がったんです。浦上の方を見たら…もうあの日の夜の浦上は火の海でした…。海が荒れて大きな津波が襲ってくるように火が浦上全体に襲い掛かっていた。シューっと上がっているのもあれば、下の方からもプシューっと上がってくる火もあって…波のように火がゆれてですね」

「浦上はもう全滅したなと思いました。学校はどうなっただろう。片付け掃除なんかで残っとる人がおったけど、あの人たちは避難しただろうか、逃げただろうかって浦上を見ていました」

加地さんが通っていた旧制瓊浦中学校は爆心地からわずか800メートルの場所にありました。原爆で校舎は全壊。学徒動員先で亡くなった生徒も合わせると、400人を超える生徒が命を落としました。